第陸記 救出!厨(くりや)の重鎮
伝統家具と現代の橋渡し、水屋箪笥
家事仕切る母の懐内 蓋付の菓子器に入った花林糖や御煎等が収められた「水屋」の上棚。子供にとって魅力あるその場所に、許されて手を延ばしたこと、また密かに手を延ばした記憶を有する人は多いのではなかろうか。子供の好物、菓子の在り処―。しかし乍ら、勝手許されぬその扱いに、ある種「聖域」の如き畏怖を感じていたのは私だけではあるまい。
抽斗内に印判や現金さえ入れられた水屋は、子供だった私にとって、乾物や器の収蔵庫といった本来の役割を超越した存在であった。何か、家の内向きを取り仕切る母の「懐内」の如き場所(物)であろうか。実に特別な家具であったとの印象を持ち続けている。
そんな、家事の中心であった水屋も、生活様式の変化に因り最早懐かしい物になりつつある。正確に言うと私の少時より既にその動きは始まっていたが、それは高度成長期頃から現れたシステムキッチンの台頭を主因とした。
台所機能全てを併せたその出現に身の置き場を失くした水屋は、家庭から次々と放逐され、純然たる食器棚と化した物だけが辛うじて残存する。比較的新しく、然したる値打もない我が家のそれも、多分に洩れず母亡きあと処分されたが、累代で使用された年代物を、感慨深く見送った人も多かろう。
水屋箪笥の特徴と起源 さて、昭和世代には思い出深いこの水屋(水屋箪笥)。実は関西の民間が発祥という。正確な時期は判っていないが、明治以降に発達したらしい。銘木を多用しながら剛健に仕上げた、京物や江州(ごうしゅう。近江)物が有名であるが、そのような優品は明治末年以降に出現したらしく、本来は簡素なものであったという。
水屋箪笥の構造は、衣装箪笥のように板のみで組まれる「板組」ではなく、家屋と同じく角材の組枠に板を張る「框組」(かまちぐみ)が用いられる。その長身を支える為か、または陶磁器や鍋類等の重量物収納の為か、実に重厚な印象を齎す一因となっている。また、運搬の便を考慮してか、上下2段に分離出来るものが多く、下段側の大きな引戸内に器類、上段側の抽斗や引戸内に小物や食品が収納されるようになっていた。そして最大の特徴は、上段に設けられた金網若しくは簀(す)張りの引戸棚の存在であった。
ところで、水屋箪笥は台所に設置される箪笥の代表だが、水屋登場以前の江戸期には「蠅帳」(はいちょう)と「板厨」(とだな)がその代表であったという。蠅帳とは、金網や葦簀(よしず)を張った小型の釣戸棚で、調理した食品類を収納するものである。網張りの通気性により食品の傷みを防ぎ、併せて鼠や虫を遮断した。同様の物に細かい縦桟を設けた「鼠入らず」がある。板厨は舞良戸がついた小型の戸棚で、食器類を収納した。
部屋の上部に釣られた網棚と、下置きの食器棚―。その形状や設置形態、役割からすると、どうやら水屋はこれらが組み合わされて誕生したようである。例によって詳細は不明だが、水屋の直接の祖は、これら複数の台所家具とみてよさそうである。因みに、台所用に限らず、民間より生じた「箪笥」の類は、寛文(17世紀後半)頃、大坂(阪)で発生したとされるので、当然これら「水屋の祖」もそれ以前には遡れまい。
システムキッチンにも繋がる合理性 どうやら、水屋は旧来家具の複合製品であることが判った。蠅帳の役割が調理食の保存にあった事を考えると、水屋は冷蔵庫的機能も有していた事となる。事実、冷蔵庫普及以前は重宝されていたらしく、ガラス戸等に改変されたりした後の上棚に菓子等を入れたのはその名残だったようである。なお、古くから茶事で使用される同名の棚は、それらの機能から考えると、名のみの関連で別系統の物であることが判る。茶事用のそれは、茶棚や茶箪笥の祖と見るべきであろう。
古くから用いられた台所家具を統合して生まれた水屋箪笥。システムキッチンにも繋がるその合理性は決して古さや伝統のみではない、新しい水屋の姿を垣間見せてくれた。それは、突如次代に座を奪われた古物ではなく、寧ろそれを用意した近代的家具であったとはいえまいか。伝統家具と現代を繋ぐ橋渡し―。水屋とはそんな存在であった気がする。
庭に眠る時代の「残置物」救出へ
新しい時代の到来、そして更なる合理化の波に洗われ消えていく水屋たち。そんな、生活・家屋事情変遷の縮図ともいえる状況が、我が古家にもあった。それは、庭に置かれた古い水屋の存在であった。鈍い煤色と、銅製の引手が重厚なそれは、先住者の残置物という。台所収納の裏書によると、我が家のそこが今日見る板床式に改装されたのは、昭和41年。この水屋はそれ以前の土間床上に置かれていたものに違いない。
所謂框組で、全て無垢材で成されている事と、補修用合板に右書きの検査印紙を見る事から、戦前の作と思われる。その値打と愛着故、処分出来なかったのか。しかし、トタン下にあるとはいえ、長年外気中に放置され、朽ちるのを待つが如き状態であった。存在感ある姿を惜しんで引取り先を募ったが、既に傷みが目立つ事等から実現しなかった。手を打つのは今が最後―。そんな焦りと使命感から、結局は私自身が救出して再利用する事にした。
害獣虫の「漁礁」。庭からの引き出しと洗い 水屋は倒れないよう、庭隅に固定されていたので先ずはそれを外すことにした。無造作に打たれていた框の釘跡が痛々しい。次は移動だが、何分大きく重いので大変である。友人に手伝ってもらって引き出したが、引っ掛かって裏板の一部を割ってしまった。簡単に補修出来る程度であったが、のっけから仕事を増やしてしまった。
そして、そのまま庭中にてホースの水と洗車ブラシで洗浄した。数十年の汚れは最早拭き取りなどでは歯が立たない。まさに「洗い」である。昔聞く家具の洗いを、今こんな所で行うとは思わなかった。しかしこの水屋は手強かった。至る所から鼠の糞や、虫の死骸が大量に出てきた。どうやら害獣虫の漁礁ならぬ繁殖地と化していたようである。洗浄後ふやけた補修合板を外すと、また大量の糞が……。
結局作業は3度に及んだ。その際、後付の部材を撤去した。家具の洗いは乾燥が易い盛夏のこの時期が相応しい。丸1日あれば屋内に入れられる程である。ただし直射日光は禁物である。ところで、乾燥中、水屋が強い芳香を発することに気づいた。とても高貴な香りで、檜特有のものであった。そういえば長年外にありながら、虫食いが一箇所しかなかった。しかも、それは後付箇所であった。
しかし、この洗浄で重大な失敗を犯してしまった。それは、表面を洗う際に石鹸を使用したことである。それにより独特の煤色が一部落ちてしまった。煤色は長年の薪使用により生じる現象で、防虫効果があり、乾拭きすると深い艶を発する。つまり今の環境や速成では成し得ない「味わい」だったのである。諸賢方々も同様の機会あれば、十分注意されたい。
補修開始。先ずは木部欠損箇所への対処 さて、洗浄後十分乾燥させた水屋を屋内に入れ補修を行う。大きさ故キリがないので、要所のみの実行とした。先ずは木部の欠損補修からである。今回対象にしたのは、水屋の「顔」たる前面上部にあった大きな切欠きと、側面下部にあった鼠の齧り穴である。他にも板の収縮や反りによる隙等があったが、もはや食料貯蔵には用いないので、そのままにした。
先ず切欠き部分に、木目と切欠き形状に合わせて切り出した手持ちの檜棒を嵌め込んだ。接着は木工ボンドである。本来は切欠きを単純な形状に調整して行う方が楽であるが、強度や趣に影響するので根気よく合わせた。檜は柔らかく加工性がいいので、それ程苦にならない。
齧り穴も檜の薄板を使用して同様に仕上げたが、内側の抉れは引戸で見えないので、そのままにした。あと、切欠き付近にあった鋸傷や釘跡等の目立つ箇所のみ、新漆と削り粉を合わせたパテで充填した。削り粉はヤスリ使用の際出た細かいものがよく、余れば保管しておくと便利である。ただ、紙ヤスリのものはヤスリ片が混ざるので注意したい。
引戸の補修。水屋の小町家ぶり 次は引戸の補修である。引戸は精緻な格子細工が成された上部の食品用と、下部の舞良戸(まいらど)があったが、上部のものは損傷が激しく、またデザイン的にも難があったので使用しない事にした。よって、長年の使用により酷く磨耗していた舞良戸の下部枠と、それに接する敷居のみへの対処となった。先ずは蒲鉾型になっていた下部枠を鉋で水平にし、溝幅程の檜棒を接着した。そして爪楊枝を用いた木釘を前後に仕込んで接着強度を増加させた。
敷居の補修は、通常溝跡を大きく削り、埋木をして新たに溝を掘るのだが、大変なのでこのまま新たに3ミリ程掘り下げる事にした。工具は彫刻刀と紙ヤスリのみである。専用の「溝鉋」や「抉り鉋」(しゃくりがんな)があれば楽であるが、ないので仕方ない。地道に削り進める手元に檜の香が心地よい。作業性も悪くないが、何分箇所が長く、複線なので大変である。
この難儀をある時ルームマーケット代表平野氏の夫人で、建築家の正子(まさこ)氏に話した処、「まるで小町家ですね」との感想を頂いた。柱や壁板の補修に建具調整―。確かに水屋修繕は町家改修と変わらない。知らずに進めた作業の本質を笑いながら、相槌を打った次第である。しかし双方共難儀を越えて修する価値を有したものであるには違いない。
日本古来の品々による天然古色塗装 木部の補修が終ったので塗装に入る。補修箇所以外は乾拭きだけでも構わないのだが、古色を誤って落としてしまった事と、元々傷が多い事もあって全体に施して一新させる事にした。用いたのは「柿渋」と「松煙」(しょうえん)、そして「荏油」(えあぶら)である。
柿渋は知っての通り、柿の実から採れる防虫防腐塗料で、京都市内なら河原町二条の専門店「渋新」等で1合数百円程度で入手出来る。松煙は松材の煤から成る顔料で、建築資材店で1キロ千円程で買えるが、なければ墨汁か黒弁柄で代用可能である。荏油は荏胡麻の油で、京都なら山中油店等で0.3リットル程を千円強で買える。何れも日本古来の天然産品で、無害なのが嬉しい。
塗装に当っては、出来るだけ金具類は外したい。柿渋は金属と反応する為である。ただし鉄製は折れ易いのでマスキングのみとする。今回は銅製の引手を全て外した。それぞれピッチや穴径が違うので組合せが判る様に保管する。そして、水屋回りの家内を新聞紙等で養生した。
容器に松煙を入れ、少量の柿渋で溶く。馴染めば柿渋を全量入れて塗料を完成さす。柿渋と松煙の割合は3:1程。今回は濃い煤色にする為、松煙の割合を多くした。減らせば木目を透かせる事も可能である。なお、赤弁柄も加えると、茶色等も表現出来る。
調合した塗料を刷毛で手早く塗っていく。ペンキと違い、水を塗る感覚なので楽である。注意すべきは、顔料が沈下するので時折攪拌すること。あとは強い臭である。臭は消えるまでの数日間辛抱するしかない。1日以上の乾燥時間をおき、計2回塗った。ただし、柿渋を素塗りした内部と背面は1回のみである。2回目の乾燥後、全体をよく乾拭きして松煙を定着させ、荏油を布で擦り付け仕上げた。こうすることで余分な松煙の付着がなくなる。
先人の工夫とセンスを感じる引手の自作補修 塗装が完了したので引手を戻したが、一箇所留金と座金が欠損していたので、補うことにした。引手も水屋の大事な「顔」である。当初、引手ごと新調しようとして市内某専門店に買いに行ったのだが、価格を聞いて諦めた。驚くなかれ、その値1個2万円強。このタイプの引手は「さるかん」と呼ばれるもので、職人による完全ハンドメイド。しかし、これでは、ちょっとした箪笥が一棹買える値段である。そこで自作することにした。
オリジナルと同じ厚さの銅板をホームセンターで購入し、その上にオリジナルを置き、キリでトレースしたあと金バサミで切り出した。銅板の値は400円程。穴開けはドリルと棒ヤスリを使用した。全体をヤスリで調整し、最後に耐水ペーバーで研磨して仕上げる。とにかくオリジナルを真似た。座金端面の斜角処理や、留金の露出部のカーブ付け等に、先人の工夫とセンスを感じることが出来た。こうして無事欠損引手が元の姿に復した。新しい地金色が目に付くが、やがて馴染むであろう。
実用性向上も図った抽斗への処置 最後は抽斗(ひきだし)の磨耗対策である。抽斗の受け側木部の幾つかには深い磨耗が見られた。珍しく抽斗底に鉄釘が使用されていた為である。しかし、表面から判る症状ではなく、埋め木や木釘への交換も煩瑣なので、これ以上の磨耗を防ぐ簡易策を施した。
先ずは錆釘の頭をヤスリがけして底板面に均した。そして、底板両端に短冊状に仕立てた樹脂板を障子用両面テープで貼った。釘を隠しつつである。樹脂板はホームセンターにあった数百円のもので、環境に配慮してポリプロピレン製を採用した。こうして、受け側と抽斗との摩擦を減らし、症状の悪化を防ぎつつ引き出しを易くして実用性も向上させたのである。
一線を退いた重鎮の再出発 庭隅に見捨てられていた水屋はこうして救出された。当初のままではないが、良材を駆使した頼もしい姿が再生されたのである。私はこれを客間の押入れ内に設置し、収納として活用することにした。戸を閉てて隠してもよし、また飾りでもして見せてもよしといった具合である。一線から退き役割から解放された重鎮の再出発には悪くない処遇であろう。
今回の造作は物が大きく、乾燥工程が幾つも入った為、長時に渡ってしまった。しかし特別な工具なしで、本格的な修繕に違わぬ結果を得ることが出来た。手間の多さと難儀から、業者による修繕費高額も理解出来た半面、自分で何とか出来ることも判明したのである。
さて、あなたの家隅の水屋も、救出と再登用を、その剛健な身を余して待っているかもしれない。