第漆記 合作!アーツ&古玻璃
住まいに欠かせぬ「透明な存在」、板硝子
先日テレビで、かのヒマラヤの秘境ブータン王国の映像放映があった。そこでは現地に特徴的なチベット様式で成された白亜の大屋が紹介されていた。それは現地語で「ゾン」と呼ばれる、政庁と僧院そして城塞を兼ねた17世紀前半築の古城刹であった。
石敷きの庭囲う大回廊から、最奥に聳える主殿まで画像が流れる中、解説の声はこれらが創建時の姿を保つ貴重な遺構であることを告げた。しかし私の眼には耳からの情報とは相容れないものが捉えられていた。それは各所に使われていた硝子である。
窓に用いられる板硝子が日本や中華そして印度で普及し始めたのは、確か19世紀後半以後のことである。アジアの先進地たるこれらより200年以上も前に、ブータンでそれが実用されていたとは信じ難い。よって、この硝子窓は後年施工されたと思われる。
少々解説に偽りありの風情だが、思えば日本の国宝建築でも同様を見たことが思い出された。古今東西の様式に違和なく馴染むこの透明な存在は、その必需的性質故に各所で例外視されるのであろうか。普段テレビを見ない私は、出先で偶然接したこの映像によって、身近な品ながら、これまでその成立ちを殆ど知らなかった板硝子についての調査を思い立った。
板硝子(窓ガラス)の起源 硝子自体の歴史は、古代エジプトの出土品でも知られるように頗る古く、5000年以上前からの製造が確認されているという。しかし、それは装飾品等の小物であって建材ではなかった。初めて建築に於ける硝子使用が確認されるのは、紀元1世紀のローマ帝国諸市で、神殿や浴場そして邸宅等の窓に使用されたという。
古くから需要があったとみられるにも拘らず、装飾品から3000年も登場が遅れたのは、平滑さと大きさが求められるその製造難儀によるという。この時代行われていた製法は、型枠に流し込む「鋳造法」であったが、これでは原料費がかかる厚い物しか出来ず、必然、使用者や箇所が限定された。
実はローマ以外でも、同時代のアラビアに自然石を用いた窓硝子があったとの報告(大プリニウス著『博物誌』)や、紀元前1世紀前後の前漢に武帝が成した硝子戸付の祠堂があった話もある。
しかし、前者は物証や傍証がなく、また後者も『漢武故事』という偽書と目される書が出典の為あてにならない。確実最古の遺例は、ポンペイの浴場に使用された天窓なので、やはりローマ起源が優位のようである。3世紀の漢文史料にも、ローマと目される「大秦」に於いて硝子が建材にされていることが記されている(萬震著『南州志』。『史記』等の注に引かれる逸書)。
板硝子出現その後 ローマ帝国での使用を契機として、その後、板硝子は欧州各地に広がる。それは主に教会での使用であったという。教会の硝子といえば、かのステンドグラスが思い出されるが、これは元来小さな硝子を繋いで大きな硝子面を得る為の実用的技法であった。その技術基礎は8世紀頃カロリング朝フランクに於いて固められたという。東洋では、5世紀の北魏で西域人が硝子張りの宮殿を成したのち、それが珍しくなくなったとの記事が史書(『魏書』巻102西域伝。6世紀成立)に見える。
だが、何れにせよローマ期と変わらず、宗教施設や王侯居館等の限られた場所での使用だったようである。
やがて、板硝子の一般普及を妨げていた製造難とコスト高に対する改善が欧州で始められる。その最初のものが「クラウン法」と呼ばれる、膨らませた硝子球を切開して円盤状板硝子を製する技法であった。7世紀頃登場したこのクラウン法によって、薄い硝子の製造が可能になり、更に非接触製法の為、透明度や平滑度にも優れるようになった。そしてそれに続き、硝子球を筒状にしてから切開して板にする「シリンダー法」が開発され、中世ヴェネツィアでの盛行を経て板硝子製法の主流となった。
こうして欧州での板硝子使用は漸増し、16世紀初めまでには都市部での一般使用が実現されたという。
日本での板硝子の歴史 板硝子先進地欧州より遠く隔たった我が国では、独自にその製造を試みる発想は生じなかった。それは他のアジア地域も同様で、唯一古代に於いてそれを試みた中華でさえも以後は行われることはなかった。
日本で板硝子使用が報告されるのは、江戸期に入ってからで、管見では17世紀後半の寛文期に長崎の豪商伊藤小左衛門が天井水槽を成した話が初出である。そして、それより少し後の元禄期に、伊達綱宗が硝子障子を邸に設けたのが建具への最初の使用例とみられる。当然、何れの話も輸入硝子を使用したであろう。しかし、その後も官民共、板硝子の使用は殆ど見られなかった。
明治に入って漸く普及が始まるが、その末年まで国産化が成功せず、高価な輸入品に頼ったため公共建築や富裕層宅での使用が目立った。
しかし、国産化成功以後、我が国の板硝子事情は長足の進歩を遂げる。 操業開始数年後には早くもアジア諸国に出荷を始め、大正初年には考案されて間もない「ラバーズ法(蒸気式シリンダー法)」、次いで「コルバーン法(スリット式引上法)」や「フルコール法(冷却式引上法)」を導入して一般への普及は疎か、技術面でも先進国と肩を並べた。折しも、欧米では高層建築に用いる大型硝子需要の為、中世以来の製法に変革が起こっていたが、日本もその流れに乗ることが出来たのである。
そして、戦後は今日の主流製法となる「フロート法(液化金属面浮置法)」が導入され、歪のない高品質な硝子が安価で量産されるようになった。耐熱硝子や強化硝子等の高機能品も開発され、建築のみならず様々な箇所に使用され、今日に至ったのである。
町家・古家の板硝子 以上が調査した板硝子の歴史概要である。ところで、御馴染の町家にそれが導入されたのは、いつ頃のことであろうか。研究者等によると、やはりそれも明治末年頃からという。初めは商家の表側に使用され、次いで一般の玄関戸、そして方々の建具に導入され昭和初年には今日見る姿になったようである。中でも台所天窓(引窓)への使用が早かったという。
明治末年から昭和初年という期間は、ちょうど古家たちの誕生期と重なる。それは、日本の、そして世界の板硝子製造史に於ける画期でもあった。意外にも、古家の床しい硝子風情は、当時の最新事情の反映でもあったのである。 最早住まいには欠かせぬ素材となった板硝子―。最新ビルは無論、古建築にまで使用されるその「透明な存在」は、これからもその柔軟さと相俟って、重宝され続けるに違いない。
「無用の板物」活用へ
板硝子といえば、以前我が家で発見された硝子戸が思い出される。一枚は、台所の床下、もう一枚は厠裏の庭隅から出てきたもので、何れも小振りで、どちらかといえば洋式風情を持つものであった。発見当初は厚い埃に覆われていたため硝子とは気付かず、白黴も見えたその汚さから、他のゴミ共々廃棄しようと考えた。しかし、使えそうな板材共々庭で洗ってみると、古い型板硝子(型硝子、プレスガラス)の美しい姿が現れたのである。
何やら泥中より貴石を得た心地で驚き、そして保管するに至った。恐らく、これも先住の大工氏が補修材等として保管していたものであろう。
見つかった美しい型硝子は、「モールガラス」と呼ばれるもので、コルバーン法で成された板硝子を型ロールに通して製されたという。国産最古級の品種で、戦前の1932(昭和7)年から、戦後の50年代まで生産された。しかし、元は明治期からの輸入種なので、それ以前からも存在したようである。どこか、洋風で洗練された印象を受けるのはその為であろう。近頃ではその人気回復により、復刻もされているらしいのだが、ひと手間かかった「本物」の趣には敵わないという。
私はこの瀟洒かつ貴重な硝子戸の実用復帰を思い立った。しかし我が家には収まるべき場所を見つけられなかった。どうやら、外部から持ち込まれたようである。言わば「無用の板物」であったが、窓のない台所壁面に取り付け、飾りとして活用することにした。
艶やかで深い色合いを実現した柿渋塗装 先ず着手したのは木枠の塗装である。液体石鹸にて十分洗浄したので、そのままでもよかったが、少々木肌に荒れがあったので軽く施すことにした。用意したのは、前回の水屋でも使用した天然塗料「柿渋」である。
先ずは塗装に先立ち硝子を外すことにした。硝子は裏面側中心にある一本の横桟によって上下2枚に分けられていた。この横桟を片側にスライドさせて外すと、硝子も同様に片側へのスライドで外へ引き出せるようになる。簡易にしてよく出来た造りである。気を遣ったのは、硝子に無理な力を掛けない様にしたことである。型板硝子は型目に沿って割れ易い。そして、取外し後の保管にも注意した。
壁面と接触する裏面の真鍮ラッチも外して木部のみとなったところで柿渋を塗布した。原液のまま刷毛塗りしたのである。一般的には柿渋を塗った後は布で余分を拭き取るのだが、塵が付着するので行わなかった。その代り、刷毛を幾度も走らせて余分を馴染ませる「拭き漆」の技法を用いた。
1日以上の乾燥時間を置いて、計2回塗る。そして2度目の乾燥後、布で磨いて仕上げた。柿渋のみの使用にも拘わらず、意外にも艶やかで深い色合いが実現出来た。
「隅金具」を利用した壁面への取付け 塗装完了後、まだ硝子は戻さず、木枠のみの軽さを利用して取付け位置の選定を行った。候補の場所数所にツマミが付いた画鋲を刺し、そこに枠を下げてバランス等を確認するのである。そうして、納得し得る位置が決まれば、取付け用の金具を当てて鉛筆で印を入れた。壁にはビニールクロスが貼られていたが、鉛筆といえども色が落ち難い場合があるので、薄めに印すのである。
金具は「隅金具」という、木枠裏手の四隅を受けるものにした。本来は家具等の隅角を補強する金具であるが、堅固な割に目立たないことから利用することにした。ホームセンターでネジ付4個入りが250円程であった。
次は印に合わせて金具を壁にネジ留めするのだが、この壁は作り付けの下駄箱側板を兼ねた薄板で出来ていたので、ネジのかかり具合に不安があった。よって、裏側に木片を当てることにした。本来は、薄壁用のネジ受け部材も売られているが、穴寸が大きくなり、原状回復に問題が生じるので用いなかった。
木片は、以前棚を作った際に出た松の端材である。切断の必要はなかったが、ネジを受ける位置に錐で下穴を開けておいた。そして、付属の木ネジ使い、木片共々薄板を挟みこむ形で金具を固定した。比較的軽いとはいえ、硝子使用の危険性を考慮し、1金具3本、計12本のネジを使用した。
金具が壁に付いたら、一旦木枠をそれに嵌め込み、木枠を金具に固定する為のネジ位置を決めた。木枠を壁に押しつけ、歪みのない位置で、金具穴から覗く木部に錐で印を付け、下穴を開けるのである。ネジ数は着脱の便を考慮し、最低限である各金具1本使用の、計4本のみとした。そして、木枠に硝子を戻し、改めて金具に固定して施工を完了した。
更なる工夫、合作!アーツ&古玻璃(グボーリ) こうして、古家奥底に埋れていた希少な硝子戸が壁飾りとして復活した。柿渋による艶やかな色合いが古家に馴染み、また型硝子の深みある透明感が残暑に涼感を醸したのである。なかなかの風情である。しかしこれだけでは何か物足りない。というより、芸がないような気がする。恐らくそれは硝子戸といった極めて実用的な品をこの様な非実用的使用に転じた為かと思われた。
そこで、再度実用性を演出する為に引き伸ばした風景写真を裏貼りすることを思い付いた。しかし、悪い手ではないがこれでは少々あざとい気がした。そして思い至ったのが懇意の画家林雅彦氏の、明暗豊かな作品を導入することであった。
古い洋館を活用した京都の新しい商業施設「新風館」の表玄関を飾る垂幕作品等を手掛ける林氏は、近所に住んでいることもあり、普段から往き来ある仲であった。早速連絡して事情を話すと、快く一作の提供を申し出てくれた。しかも、既存の作品を専用の構図・大きさに調整してもらったのである。実に嬉しい好意であった。ただ、専用サイズなので新たに印刷する必要が生じた。
林氏に頂いた作品データを烏丸御池近辺の出力センターに持ち込み、自身でパソコンを操作する「セルフ出力」というサービスを利用してカラー印刷を行った。一度に大判の印刷をすると高額になるので、A3サイズ3枚でカバーする分割出力にした。出力後はセンター内で借りられる用具を使って貼り合わせと裁断を行う。
費用はパソコン使用料10分200円前後、そしてA3カラー出力1枚100円前後の計500円程であった。因みに、割増を少し払うと、店側で仕上げてくれるサービスもあるので、パソコンに不慣れな人も活用出来るであろう。
出来上がった作品を木枠内寸に合わせた合板に両面テープで貼り、硝子戸裏面に嵌め込んだ。こうして美術作品を導入した壁飾りが再完成した。結果は目論見通りであった。作品を導入したことにより、硝子戸本来の役割イメージが薄れ、窓とも額縁とも付かないユニークな存在に転化した。まさに実用・非実用を超越したアートと化したのである。表現者(画)や職人(建具)、そして技術者(硝子)が成した「本物」の良さと、細やかな私の気概と工夫が良い合作を成せたようである。
「生活に芸術を―」。硝子を含む全ての物づくりが軽薄化し始めた19世紀にあって、自らの装飾芸術を以てそれに抗った英国人美術家ウィリアム・モリスの思想が、細やかながら我が家に実現されたようで嬉しい。
ところで、今回の表題「アーツ&古玻璃」であるが、「古玻璃」を漢語読みの「グボーリ」と読んでもらいたい。モリスが主導した、生活と芸術の一致運動「アーツ・アンド・クラフツ」になぞらえる為である。少々強引で語呂的にも苦しい観があるが、思わぬ成果への喜びが成した戯れでもあるので、諒として頂ければ幸いである(笑)。