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第捌記 一服!町家珈琲卓

遥かなる時空を超え、世界で寵を得た飲料

玻璃うちの暗淵に躍る艶やかな琥珀の滴。そして部屋うちに広がるこうばしい香―。舶来品でありながら、今や日本の暮しに欠かせなくなった観のある「珈琲(コーヒー)」。そんな、馴染あるも新興飲料の珈琲が、この伝統のまち京都の人々に愛され、深く根付いていることをご存知であろうか。

総務省統計局が発表した県庁所在市別消費調査結果によると、京都市の1世帯当りの年間珈琲消費規模は、金額・量共に対象市中、第3位の大きさを誇っている。あの東京区部や大阪市、そして舶来先進地である神戸・横浜を差し置いてである。この調査結果は最新のものであるが、それ以前にも同様が見られるので近年に於ける確かな状況と見做せよう。意外な京都人の珈琲愛好の事実は、確かに統計上に現れているのである。

因みに、缶入り等を指す「コーヒー飲料順位」の低さに、京都人の特質である「こだわり」を見るようで面白い。そういえば、京都市街には珈琲を碾(挽)き売りする店が多いような気がする。正に京都人の珈琲愛好と、こだわりの反映であろうか。また先日では、知人から、毎日会社内で豆を碾く人がいる話を聞いたばかりであった。元より、これらを見聞しても、さほど驚かない我々の存在自体が、京都人の珈琲愛好を証しているのかもしれない。

珈琲の起源と伝播  さて、新参者ながら頑な京人を虜にしたこの珈琲。その来歴は如何なるものであろうか。洋食とセットで馴染んだせいか、我々にとって珈琲とは洋風の印象が強いが、実はその原産地はアフリカで、飲用はアラビアで確立されたという。語源である「カフワ(qahweh)」は正にアラブ語である。諸説あるが、10世紀以前にエチオピアで発見され、当初は粉にして油で練り固めて食料にしていたらしい。今見るように焙煎飲用するようになるのは13世紀頃で、回教聖職者の覚醒用等に用いられていたという。

その後、酒と同一視されて回教法により規制されたりもしたが、徐々に回教社会に広がり、16世紀にはその中心であったオスマン朝の都、イスタンブルに世界初の本格珈琲ハウスも出現した。そして、この三大陸の覇国での盛行と、大航海時代が齎した国際交易の活発化を機に、回教圏外にも流出し始める。

先ずは17世紀初頭のイタリア入りを皮切りに、欧州各地に広がり、世紀中頃以降はロンドンやパリといった主要都市に珈琲ハウスも誕生、末期には北欧や北米にも達した。そして、珈琲の魅力と商品としての高い価値を知ったそれらの国々により、世界各地に栽培が広められ、現在の状況へと繋がっていったのである。

日本への伝来  17世紀になって俄に世界へ広がり始めた珈琲であるが、極東で、しかも鎖国体制下の我が国では、まだ遠い存在であった。しかし、それにも拘わらず、やがて珈琲を持ち込み使用する者が現れた。それは、鎖国下、唯一駐在と交易を許された欧州人、オランダ商館員である。

彼らが珈琲を持ち込んだ正確な時期は判らないが、17世紀末に来日した商館医ケンペルの記録に記述がなく、次に記録を残した18世紀後半来日の同ツンベルグが頻繁に記していることから、この間に持ち込まれたとみられる。もちろん、彼らが持ち込んだ珈琲は彼ら自身の嗜好品であった為、日本人に飲用が広まった訳ではない。ただ、商館員に振舞われてそれを味わった日本人は伝来当初からいたようである。幕臣で、文化人でもある大田南畝もその一人で、「味ふるに堪えず」との所感を残している。

自ら珈琲を嗜んだ最初の日本人としては、商館員と接した通詞と遊女が挙げられよう。前者はツンベルグの証言、後者は長崎奉行所保管の、商館員から遊女への贈答品のリストに証が見える。通詞は無論、商館員担当の遊女も女中として彼らの私生活を支えた為、接触時間が長かったという。珈琲が正規輸入品でなかったこの時代、大名や豪商といえども常時これを得ることは不可能であった為、この2者が最初の常飲者であった可能性が高い。

その後も珈琲を口に出来たのは商館員と接触出来る人間に限られた。例外的事例としては、幕末の19世紀中頃に蝦夷地勤番の幕臣に対して耐寒飲料として支給されたこと等があるが、結局の所、伝来こそしたが江戸時代には普及しなかったと見るのが妥当と思われる。

近代開闢。喫茶店登場  明治に入っても状況は変わらず、輸入はされたが居留民用と見られる極少量のみで、新聞での販売広告もあったが普及を示すものではなかった。しかしそうした中、喫茶店が出現する。日本初のそれは明治11(1878)年頃、神戸で広告を出した「放香堂」だとされる。広告上でしか確認出来ないが、碾き売りと店内提供を行っていたようである。

写真等で営業が確認される最初の店は、明治21(1888)年に東京下谷で創業した「可否茶館」である。そして、その後、浅草に「ダイヤモンド珈琲店」等も開業し始める。だが、何れも長続きしなかった(放香堂は茶葉店として現存)。その原因は代価の高さにあったとされる。恐らく、為替や輸入量等の問題で原価が高かったのであろう。明治になって自由に扱え、その名も知られてきたが、まだ大衆の馴染になり得る存在ではなかったのである。

大正から昭和。大衆化へ  一旦は珈琲普及への期待を裏切ったかのように見えた喫茶店出現であったが、やはり、それに対して決定的な役割を果たすようになる。そのきっかけが、大正初年に於ける「カフェ・パウリスタ」の開店であった。

この店はブラジル政府より豆の無償提供を受け、日本での珈琲普及を目的として開かれた。全国主要都市に開かれた支店で格安提供された本格珈琲は立ち所に大衆の人気となり、様々な行事に出張し、試飲会を行って珈琲の普及と販路拡張活動も行われた。

そして、その刺激により、全国に「ミルクホール」や「カフェー(酒食も供した為、のち「純喫茶」と分化)」等の大衆店が次々開店する。昭和に入るとその流れは加速し、全国で数万軒の店舗が営業するようになった。こうして、俄に珈琲の普及は進み、日本人は世界有数の「珈琲好き」の観さえ呈するようになったのである。

大戦前後は輸入が途絶えて衰退したが、その後は順調に回復し、今日の盛行に繋がる。近年の珈琲消費量は実に世界第3位。正に、名実共に「珈琲好き」の国となったのであった。戦後の特徴としては「自家飲み」の流行が挙げられるが、これは昭和50(1975)年に起こったブラジルでの霜害による価格高騰が契機となったらしい。因みに、消費量は現在でも上昇を続けている。日本人の珈琲好きは更なる深化を続けているのであろうか。

そして京都  珈琲好きの日本人、その中でも一際愛好度合の高い京都人の前にそれが現れたのはいつ頃のことであろうか。残念ながら判らないが、普及にはやはりかの「カフェ・パウリスタ」が影響したようである。

京都最古の大衆喫茶でもあるその支店「京都喫店」は、「下京区四条京極中3丁」なる場所にあったという。今でいう、新京極四条北の「中之町」辺りのことであろうか。一度付近を探索してみたい。近くでの、一碗を楽しみながらである。遥かなる時空を超え、世界で寵を得た、珈琲の来し道を思いながら……。

「町家珈琲卓」製作開始!

上記史章で日本人や京都人の珈琲好きを記したが、斯くいう私も珈琲好きの一人である。ないと落ち着かないと言う程ではないが、適した気候になれば日に1度は口にしている。ただ、私の場合は同様に茶類も好きなので、「珈琲好き」と呼ぶより、「煎じもの好き」と呼ぶ方が適しているのかもしれない。

この辺りは、珈琲と同じく茶の消費規模も大きい京都人の特徴を体現しているようで我ながら面白い。史章で紹介した統計では、普通珈琲の消費が大きな都市は茶類の消費が小さくなる傾向がみられるが、京都市は違い、両方を楽しむ様子が窺えるからである。

そんな珈琲好きの私に、それに関するちょっとした課題があった。それは板間の台所に小卓(珈琲卓)を設けることである。ただでさえ狭い家に、そんなものは不要とも思われたが必要性は高まるばかり。炊事中に資料を読んだり飲物を飲んだりすることが多く、また外出前に手早く食事を採ったり飲物を飲んだりする必要もあり、その場所が欲しかったのである。それから来客で客間が使えないとき等にも何かと便利であると思われた。

そこで、珈琲旨い晩秋到来を機にそれを調達することにした。しかし、存知の通り市販品には古家に合うものは見当たらない。またオーダー品の高額も知る通りである。よって例の如く自作することにした。古家の為の、「町家珈琲卓(町家コーヒーテーブル)」製作開始である。

由緒ある優良材と、それを活かし長持ちさせる設計  先ずは設計であるが、以前ちょうどいい大きさの天板材を貰っていたのでそれに合わせて行うことにした。ルームマーケット代表、平野氏の夫人正子氏より頂戴したそれは、厚さ1寸(3センチ)を超える欅(けやき)の一枚板。端材ながらとても重量があり、また木目も麗しい存在感溢れる逸品であった。元は全長4尺(120センチ)あった床板(とこいた)で、鉄脚ミシンの天板用に市内道具店で購入し、切断した余りだという。恐らくは古い町家から出た物に違いない。

そして、脚部その他の材はルームマーケットの内装に使われているタモ材の残りを用意した。処分される際に貰っておいたもので、何でも開業前、関東まで買い付けに行った道産の良品らしい。ともかく、由緒ある優良主材がこうして労なく揃ったのは喜ばしい限りであった。

設計方針は、第肆記の「町家サラウンド」と同じく、部屋の狭小や和様との兼合いを考慮して、圧迫感なく、取回しの良い物となる事にした。あとは他の用途にも使える汎用性と、補修や収納等の際に威力を発揮する分解性の付与である。調理補助台としての利用や、畳間や庭での利用等を考慮したのである。こうした汎用性を与えることは結果的に物を長持ちさせることに繋がる。また分解性の付与は、修繕不能となった後も、材として再利用出来る可能性を高め、貴重材の伝世にも繋がるのである。

そして、それらの観点により、材への穴開け等は極力行わないことにした。その為、特に貴重な欅天板への脚部取付けは、天板裏に元から刻まれていた「蟻溝(吸い付き桟)」を利用する事としたのである。

本職への相談  さて、今回は施工前に本職の意見を聞くことにした。限られた材と工具で行う脚部製作での本職のアプローチを知りたくなったからである。話を伺ったのは知己である地元の木工作家、戸田直美氏であった。店舗や個人向け等の様々な家具製作に活躍する氏は、温かさと実用性を併せ持った作品づくりを続ける若手の実力者。そんな氏の工房に快く招かれ様々を伺ったが、最大の収穫は一本脚構造に於ける4角材使用のアドバイスであった。

元来、天板面と接地面を角材で十字組みにし、一本脚で繋ぐ案を考えていたが脚用の太材がなく問題となっていた。このままだと数本の角材を、面を整え貼り合わす難儀な作業実施が必至であったが、このアイデアが簡略化の道を開いた。さすがは本職である。この他、塗装や接着等についての相談にも乗って頂いた。また、天板切断面の歪みも電動工具で整えて頂き、欠け埋め用の欅端材まで頂いた。只々、感謝するばかりである。

古家の規格に合致した天板加工  こうして設計の根幹が固まったので実作業に入る。先ずは天板の加工である。紙や棒のヤスリを使用して端面を調整し、欠けに形状を合わせた欅端材を木工ボンドで接着した。

1日以上置いて固着させた後、ドリルで適宜穴を開け、径3ミリ程の丸棒を挿入して接着する。そして、足した端材ごと端面をまたヤスリで調整し、元から丸みが付けられていた端面以外の3面にタモの角材を接着した。この作業は端面の保護と板厚不定の隠蔽、そして天板面積の調整を意図して行った。これにより天板寸法は短辺300ミリ、長辺485ミリ程となる。一見中途半端な数値だが、これには理由があった。

実はこのサイズ、古い米櫃や道具箱をヒントに採用した。これらの脈絡ない収集品が水屋や奥行の浅い押入れにぴったり収まったからである。短辺は言うまでもなく旧尺貫法の1尺弱、長辺は京間1/4間(けん)にちょうど収まる寸法である。つまり、古家の規格に合致した、収納や取回しに優れた寸法なのである。

角材接着後は、端材の処理同様、径6ミリの丸棒を用いて補強した。その後、各接着部の隙や打痕等に、削り屑を混ぜた新漆を充填し、それが乾燥した後、全体を鉋やヤスリで整えた。なお、丸みがある端面の対向に貼ったタモ材には同様の丸みを付けて形状の対称化を図った。

脚部の製作と、仮組みでの問題発生  天板の加工が終れば脚部の製作である。その前に、角材で天板を仮置きして天板高を決める。使い勝手や美観を左右する要所なので抜かりなく行う。結果、算出された天板面の高さは575ミリ。これより低いと椅子使用の際、膝が入らなくなり、高いと目障りになるという境の位置であった。家具の構成にこれほど繊細な要素が含まれていることを改めて実感した次第である。

天板高が決まれば、それに合わせて脚部材を加工するが、先ずは脚柱の上下を支える十字台を角材2本で製作した。2本共、中程に彫刻刀等で切欠きを入れて木槌で組み合わせたのである。そしてその十字を戸田氏の助言通り、4本の角材で挟み接着した。天板を仮置きし、水平等を確認しながら紐等を用いて固着した。但し、分解性や作業性確保の為、接着は十字の長辺側のみである。

接着完了後は、木槌で十字台の短辺側を外し、各接着部に補強用の丸棒を仕込む。あとは、脚部上部に付く薄板と、蟻溝用の長板とその留め板を切り出した。薄板は天板厚の不定相殺と上側十字台の補強を目的に導入したもので、元から傾斜があったタモ板を調整して用いた。長板は蟻溝の形状に合わせて板を台形に加工し、留め板はそれと同厚で、長板が嵌った後の残り溝に落し込む形状にした。

そして、仮組みしつつ各部のネジ位置を決め、錐やドリルを使って下穴を開けた。ネジは分解性を考慮しての導入であるが、耐久性も考え、全箇所ステンレスを採用した。少々割高になるが、あとを考えると譲れない選択である。

ここまで比較的順調に作業が進んだが、この仮組み途中で問題が発生した。それは、組み上がった脚部を天板蟻溝に組み込んだ際、固着してしまったことである。これでは分解性を考慮した設計が無意味になってしまう。原因は、薄板が天板両端の角材に沿って平行スライドするのに対し、長板がスライドする蟻溝が平行に開けられていないからであった。この重大な問題発生に一時は苦慮したが、長板を固定するネジ穴の径を広げて「遊び」を設け、薄板と長板の角度違いを相殺出来るようにして何とか回避した。

防虫・補修を考慮した塗装と仕上げ  各部材の加工と調整が出来たので、塗装に入る。用いるのは「第陸記」等で御馴染の柿渋である。今回は河原町二条の専門店「渋新」で最も濃い物を調達した。通常の物より高いが、一升買いすると割安となり、他でも使えるので得である。濃い物を選んだ理由は、元からある椅子等との色合わせの為もあるが、渋気の高さによる防虫効果強化の意図もあった。

今回用いた欅やタモは重硬で耐久性の高い材だが、導管が大きい「環孔材」なのでキクイムシの害を受け易い。為に、濃い目のそれで念入りに対策することにしたのである。作業はこれまでと同じく刷毛による2度塗りで、全部材全面に施した。色が薄い気もするが、日数を経て色が濃くなるのでここで止めた。

仕上げも御馴染の荏油を使用した。いわば日本伝統のオイルフィニッシュである。本来なら、水拭きを受ける天板は漆等の樹脂塗膜で仕上げた方がいいが、カップ底で傷付いた際に補修し易いこの工法を採用した。

作業は柿渋の乾燥後、布による拭き塗りを3度行う。更に繰り返すと硝子光沢が出るらしいのだが、これぐらいにしておいた。3度くらい行うと、かなりの撥水性が期待出来る。因みに、荏油も色の経時濃化が激しいという。よって、薄色の仕上りを希望する場合は注意しなければならない。あと、植物油が染みた布は発火する恐れがあるので、その処理にも気をつけたい。ともかく、その分解性故、部材毎に作業が行えたので、塗装・仕上げ共、容易かつ確実に終えられた。

組込。またの不具合対応と先天的欠陥の訳  荏油が乾燥した数日後、各部材を組み込み、小卓を完成させた。しかし、天板に力を掛けると下部十字の短辺が動く不具合が早速判明した。油分で切欠き部の密着性が落ちたようである。分解性や美観にかかわる箇所の為、接着やネジ留めが行えず当初は苦慮したが底部に補強金具入れることで克服した。底部を金具の厚み分掘り込みネジ留めしたのである。勿論、掘り込んで白木が露出した箇所には再度柿渋を塗布した。

ところで、既に気になっている人もあると思うが、この小卓にはその実用性に於いて欠陥がある。それは、十字台の向きと長さに起因する転倒抑止力の弱さである。本来こうした十字台を用いる場合、天板辺に対し45度ずらして×状に設置して安定を図る。市販品も殆どがこの方式を採用している。当然、私も当初考慮したが意匠的にどうしても納得できなかった為、敢えて今回の方式を採用した。検討した結果、×形状と古家とはどうも相性が悪いと感じられたのである。室内の殆どが長方形状で構成される為、正方的要素を持つ×形とは合わないのであろうか。

そういえば、昔のマイナスネジなら和様に馴染んだのに、今のプラスネジだと馴染まない事とも関係するような気もする。ともかく、そんな理由で今回の方式となった。使用する中で不便を感じれば、底に方形板を貼る等の対策を考えるつもりである。

完成。さあ一服!町家珈琲卓  途中、色々と問題もあったが、何とか完成出来た。端材たちが新しい調度品として生れ変わったのである。荏油の鈍い光沢に浮かぶ欅古木の木目は麗しく、またそれを支えるタモの剛鋭ぶりも心強い。小品ながら実に贅沢な一品となった。

当初心配していた安定度も板間や畳上に置く限り問題なさそうである。和室との意匠バランスもよく、古家が宿す古の規格を考慮した設計に因り、家内での取回し具合も良好である。そして、何よりさしたる工具や費用を使わずここまで仕上がったのが嬉しい。

では、完成を祝して早速珈琲を入れて一服しよう。卓上を初めて飾るカップセットから、蒸らし入れしたジャワ珈琲の香が溢れる。偶々頂いていたこのジャワ珈琲。そういえば、初めて日本に珈琲を齎した、あのオランダが栽培を始めた品であった。ということは、日本人が初めて口にした珈琲と同じ物かもしれない。祝福の如き奇縁を感じながら、その美味と完工の充足を味わう。欅・タモの錆色に、漸く現れた晩秋の気色を重ねながら…。いつもの習慣に、また新たなる彩りが付加された思いである。

部屋うちに広がる碾きたての香―。暮しに安らぎを添える珈琲は、今や日本の暮しに欠かせない飲料となった観がある。 (京都市内のカフェ、「Ratna Cafe(ラトナ・カフェ)」 にて。店内のテーブルセットは、下記造作章で紹介する戸田直美氏主宰の家具工房、「potitek」製作)。
町家の坪庭を眺めつつ、出来上がった珈琲を味わう。こんな折衷スタイルも、もはや違和感ない時代になった。 ところで、表題写真のカップは私物の清水焼で、珈琲用に愛用しているもの。これで飲むのが何故か最も味が良いので予備を探しているのだが、最近お目にかかれない。何か情報をお持ちの方がおられれば、ご一報頂ければ幸いである。
珈琲卓天板に使用する欅一枚板の床板端材。裏面に和釘の使用が見られたことから、築100年以上経た家屋の物とみられる。年輪数や乾燥年数を足すと、実に数百年を生きた貴重材であることが判る。
欅端材の裏面に開けられた蟻溝。収縮割れと反りを防ぎつつ床板を家屋に固定する為の伝統工法である。現在は動力工具を使って加工するが、これには鋸と鑿だけを用いた古人の手業跡が残っていた。
今回の造作でアドバイスを頂いた戸田直美氏の工房、「potitek」の別棟作業場にて工房作品を撮る(左椅子2脚と右梯子2台)。氏は温かさと実用性を併せ持った作品製作を続けながら、各地での個展も精力的に行っている。
多忙ながら快く相談に乗って頂いた戸田氏(工房2階事務所にて)。彼女の作品には、いつも人の手業の凄みたるを感じさせられる。なお、事務所は建築関係の技師や設計士の知人らと共用するユニークな場所で、感性感じられるその建屋自体も皆で手作りしたという正に気鋭達の創造拠点となっている。
欠けを埋め、タモ材を足して全体を研磨調整した天板。鉋がけした欅面からは鮮やかな赤身が現れた。赤身は関西物に出易いらしいので、地場の良材を使用した可能性がある。なお、元の古色はムラがあったので活かすのを断念した。
角材上に天板を仮置きし、使い勝手や周囲との兼合いを考慮しつつ天板高を決める。
脚部上下に付く十字台(左が下部用、右が上部用)。角材中心部にそれぞれ切欠きをつけ、組み合わせる。木槌を使わないと組めない固さに調整してある。
十字台への4角材の接着。天板を仮置きし、水平等を見ながらバイスや紐で圧着した。
4角材の接着後、補強の為6ミリ径の丸棒を挿入接着する。十字台が分解出来なければ、ドリルが使えず、こういった作業も出来なくなる。
柿渋塗装した全部材。分解はここまで出来るので、収納性や補修性は至って高い。塗装はネジ穴に至るまで行う。塗装の隙から虫が入ることが多いからである。
布拭き塗りによる荏油仕上げ。欅古木の凄みある木目を引き立てた。
脚部の組込(1) 先ず脚柱上下に十字の短辺側を組み込み、合わせ目にネジ留めを施す。
脚部の組込(2) 十字台が組み終われば、その上部に薄板と蟻溝用の長板をネジ留めする。因みに欅に劣らぬ木目を有すタモの薄板は、天板木目と向きを合わせてある。
脚部と天板の組込(1) 組み上がった脚部を、逆さにして天板裏に置く。長板がちょうど蟻溝の広い部分に落ち込んだ状態となる。
脚部と天板の組込(2) そして脚部をスライドさせ、長板を蟻溝奥に嵌める。十字部を木槌で叩きながらである。その後、残り溝に留め板を入れネジ留めする。この逆を行えば簡単に天板と脚部が分離出来るのである。正に先人の知恵や技とコラボレートする仕組みである。
下部十字台裏に仕込んだ動き止め金具。左右各1枚用いる。厚さ1ミリ強の鉄製で、その厚み分、木を掘り下げ、ステン製皿ネジ3本を用いて固定した。最終的に、金具には錆止めの為茶色ラッカーを塗布。
完成した町家珈琲卓。天板の欅は無論、脚部のタモの木目も美しい。板間や畳上で使う分には安定性も問題ない。
意図通り、他の調度品ともよく馴染む。少し色が薄いが、経時濃化でやがて程よい具合となるであろう。
キッチン近くに出してこの様な使い方も。狭いスペースながら、ちょうど1人分の通行が叶うが、これも古家の規格に則った設計の賜物である。
和様への配置も違和感ない。そういえば、神殿の供物台等にも通じる形状である。奇しくも、和様以上の古式を宿す型となったのであろうか。
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