第玖記 祝着!町家そば会
か細くも奥深い食
遥かなる黄土、謎の名物「天水瓜瓜」 崖岸を次々と穿ってうねりゆく列車。陽明と隧暗を繰り返す車窓には、黄色(おうしょく)の河水が切れぎれに、しかし失することなく続く。蒼空の下、そして乾いた河谷に在る濁流の不可解―。眼を起せば、草木疎らな山々と、その頂にまで造られた耕地や土製の家々が広がる。土色が霞と化し、空にまで溶け出す一面の黄色世界。気はどこまでも乾き、そしてそこはかとなく、だが確かに感じる荒漠の気配……。
遥かなる大陸中華の西奥、黄土高原。今から10数年前、私はその只中にある「天水」という街である食べ物を探索していた。その名は「天水瓜瓜」。偶々流れ着いた街の名物として旅行書に紹介されていた為の興味からであったが、記事はただその名を記すだけで、どの様な物であるかは伝えていなかった。
名物にも拘わらず街中にその名を見ず、宿の係に聞いても、存在は知っているが店は知らないとの返答。それでは試せないので、せめてどんな食べ物かを問うと、何故か明確な答えが返らない。果菜の類かと問えば否、では麺か飯かと問えばそれも違うという。気軽に求めた食であったが、何やら謎めく物と化し、仕舞には係同士がその実体を巡って言い合う状況となってしまった。
逃れて向かいの薬屋に行くと、うら若い女店員がメモ上の「名物」を見て、それを食べるのかと聞いてきた。そのつもりだと答えると、何と女子は身振り大きく、不味いので食べてはいけない旨を言ってきた。土地人が薦めない名物とは、どういうことなのであろう。益々謎は深まるばかりであったが諦めるしかなかった。
しかし、翌日市場の奥で偶然その屋台と遭遇する。喜び、早速注文して現れたのが碗に入った蒟蒻様の塊であった。だが、薬味の刻み胡瓜と辛子油の味しかせず、食べ残してしまった。女子の言は事実だったのである。残念な見聞となったが、後日調べたところ興味深いことが判った。それはあの塊が「蕎麦」を原料として製されているらしいことであった。粉を水練りしたものを湯掻いて固めたものらしい。現代の大陸では珍しい蕎麦食との思いがけない出会いとなったが、馴染の食品の意外な姿には強い印象を与えられたのであった。
蕎麦の起源と、古記録への出現 外地での意外な形態に驚かされた蕎麦であるが、比較すべき我々馴染のものといえば、ご存知細くて長い、かの湯掻き物「そば」である。この麺条様のそば、いつ頃から馴染となったのであろうか。そもそも作物としての蕎麦は、その遺伝子研究から中華西南高原地帯「雲南」での原産が有力視されている。
そして先史時代から各地に伝わり始め、栽培されてきたようである。我が国へは紀元1世紀以前に、北中華と朝鮮半島を経て伝わったという。文献上での最古の記述は、6世紀中葉編纂の華北の農書『斉民要術』で(但し6世紀後半に於ける加筆疑惑あり)、史書では11世紀中葉編纂の『新唐書』に於ける吐蕃(7世紀から9世紀頃まで栄えたチベット統一国家)の農産紹介の箇所である。我が国では、8世紀末に成立した『続日本紀』に記載される元正天皇の詔勅上(8世紀前半)が初出とされる。
蕎麦からそばへ。「そば切り」登場 この様に古くから人とかかわってきた蕎麦であったが、麺条様のそば、即ち「そば切り」が史料に現れるのは、上記よりかなり下った16世紀後半に信州で記された『定勝寺文書』が最初である。そもそも蕎麦粉の水練りを切るという製法は、日本と東欧、そしてイタリア等の一部にしか見られず、中華圏には存在しなかったようなので、上記の史料がこの製法に於ける世界最古の記録かもしれない。
実は『続日本紀』以降の古代・中世の史料にも蕎麦の記述は見られるが、その調理法は疎か、食用の実態すら明らかでないという。恐らくは、製粉せず粒のまま粥にしたり、粉を湯で溶く「蕎麦掻き」のようにして食したと推定されるが、結局の所、救荒食としての役割が主で、常食されなかったのではないかと思われる。世界的に見ても、蕎麦食に主役的趣は少ない。そんな状況から考えると、日陰者であった蕎麦を和食の重鎮に押し上げた「そば切り」の登場は、世界蕎麦食史上、画期的なことだったと言えるのかもしれない。
さて、戦国末の史料に初出した「そば切り」であるが、その後暫くは記録が途絶え、江戸期に入った17世紀前半に再び登場する。慶長期の『慈性日記』や元和期の『松屋久好茶会記』がそれで、特に珍しい物であった様子にはないが、社寺や茶会といった特殊な場所限定であった。著者が貴人であったことにも因るかもしれないが、都市部ではあまり一般的ではなかったともとれる。
因みに、同時期の文書『資勝卿記』(元和期)に、京都に於ける最初の記述が出てくる。著者の公家、日野資勝が「大福庵」なる寺院を参拝した際、そば切りを馳走になったとの記述である。大福庵の所在は不明だが、現在左京区にある真如堂参拝の際に寄ったとあるので、その付近、即ち拙宅にも近い場所だったのかもしれない。
一般化への過程。「そば屋」出現 ある食べ物の一般化を量る方法の一つに、「店売り」の出現とその増加を窺うことが挙げられよう。そば切りに於いてそれは、即ち「そば屋」の登場と普及となる。ところがこのそば屋の出現時期も詳らかではない。天正期(16世紀後半)に大坂(阪)で創業したとする老舗店の登場が最も古そうだが、傍証を欠く自称なので当てにならない。しかし17世紀後半に出された江戸幕府の触書に、夜間に於けるその「煮売り」への禁令が見え始めるので江戸に限ればその頃にはかなり存在したと見做せよう。
京都でも、同じ頃出された『雍州府志』という地誌に、中御門通にあった「丸屋」と「長浜屋」という屋号が初出する(但しこの2店が「煮売り」をしていたかは不明)。よく流布している話であるが、当初そば切りの販売は主に菓子屋が兼業していたという。確かに上記地誌によると、京の老舗である、かの「虎屋」や「二口屋」がそれを扱っていたとの記述がある。無論、菓子屋で煮売りしたとは考え難く、主に製麺販売だったと見る方が妥当かもしれない。
江戸初期に於けるそば屋の存在と、そば切り一般化への過程が見え始めたが、煮売りに関して言えば、建屋での「店売り」より、屋台等による「振り売り」の方が盛行していたらしい。所謂「夜そば売り」の類で、先の触書も、火を持ち歩いたこれへの禁制が多いという。上記地誌著者による『日次紀事(ひなみきじ)』によれば、京都では旧暦9月から同正月までの間、豆腐や蕨餅、そしてうどんと共に、そば切りが夜売りされていたという。同書は延宝4(1676)年に刊行されたので、京都もほぼ江戸と変わらぬ状況だったと見做せる。
因みに、夜そば売りは江戸では「夜鷹そば」や「風鈴そば」、京・大坂等の上方では「夜鳴そば」と呼ばれ、共々庶民に親しまれたという。
そば屋の盛況と、様式の進化 そして、「振り売り」の盛行を追うように、18世紀に入ってからは「店売り」も増え始める。江戸の「藪」「更科」や、上方の「砂場」等の、今日聞かれる名店の存在が確認されるのもこの頃である。いよいよそば切りは日本の食生活に欠かせぬ馴染の食べ物となっていったのである。江戸後期には江戸だけで店舗4000軒を数えるまでになったという。
そしてその流れと共に食様式も進化する。当初は、そばとたれを別に出す所謂「盛」のみであったのが、同碗で出す「掛」が登場した。また、それに追加される形で、各種の「種物(たねもの)」が登場する。それらで構成される「品書」は、明治・大正期までには、既に今日見るものと同様になっていたという。
因みに我が京を代表する種物「鰊そば」は、幕末から明治頃に現れたという。保存性を高めた「身欠き鰊」の登場と北前船交易の発展という、技術革新と流通発達が齎した実に先端的な献立だったようである。ともあれ、端役の「蕎麦」より歩み始めた「そば」は、こうして大勢の馴染を得るに至ったのである。
長くても塊でも共にめでたい蕎麦 さて、かの2007年も早過ぎ去り、新年がやって来た。越年・迎春の候といえば、思い出されるのが「年越しそば」である。今回も内外でそれを味わった人は多かろう。この風習の文献初出は18世紀中葉。由来は、長く伸びるのがめでたい等諸説あって定かではないが、その清爽な食味から「祓(はらえ)」思想との関連が窺われる。それは、そばが歳末に限らず、正月や節分・節句にも食される慣があることからも補強されよう。
拙宅の近所、吉田社でも、節分祭にて「福そば」を食す風習がある。節分は立春前夜、即ち陰暦大晦日に相当する。共に行われる「追儺(ついな)」儀式は、元は宮廷行事の悪気(鬼)祓いで、平安以前に伝来した唐土の「大儺」が起源という。大儺は、『周禮』(しゅらい。内容前3世紀以前。成立前1世紀以前)に原型が確認される行事で、歳末行事としては後漢永初中(2世紀)に漢宮で行われたことが、『後漢書』(成立5世紀)に初見される。
漢といえば、かの「天水瓜瓜」も、前漢末の宮廷料理より始まったとの伝承があるという。気候風土共々、日本との違いを思い知らされた存在ではあったが、か細いものながら、接点も見出された。
長くても塊でも共に初春にめでたい蕎麦。蕎麦とは、その立役「そば切り」の、か細くも末長い姿同様、様々な意が秘められた奥深い食なのであろうか。
最寒の日々。古家にて美味なる催事挙行
2007年歳末、京都市左京区中心部―。常夜電燈が仄かに点る、とある路地奥の古家にて、ある催しが行われようとしていた。企画者は正に夜陰に紛れそこへと急ぐ私。その私が大事に抱く多量の「白粉」の到着を以て、催しは始まることとなっていた……。
その日を遡ること約1週間。北海道東部より帰省した妹夫婦からその「白粉」を譲り受けた。白粉の正体は、その年とれた蕎麦粉と、それ用の打粉や繋ぎ粉。即ち「新そば」の手打ち原料であった。
今時珍しい国産、しかも石臼碾きであったそれらは、何でも婚家近隣の「そば打ち名人」と称される人が分けてくれたものという。そんな贅沢な物を一人で用いるのは勿体ないとルームマーケット平野氏に相談したところ、食事会の開催を提案して頂いた。催しは、その「そば会」だったのである。開催場所の古家は拙宅からも近いその平野家。冒頭にて良からぬ想像を強いられた諸氏には平にご容赦願う次第である。
心憎い素材起用。華やかな下拵えの完了 さて、古式の硝子引戸を開けると、早速平野一家のお出迎えである。何と平野氏は、貴重な新そばの会を支援すべく、出し汁や種物の下拵えを完了してくれていた。出し汁は、鰹と昆布の一番物を基に、蝦殻のそれも加えた贅沢なもの。種物は天麩羅で、車蝦や鰯に薩摩芋や椎茸等の野菜を揃えた華やかなものであった。無論、全て手作り。
中京の料亭家系に生まれた氏は、調理師資格を持ち、かつてはイタリアンのシェフでもあった。和洋を問わず既に幾度も氏の手料理を頂き、その味と出来映えに感心させられている私の期待は高まるばかりであった。
そして、もう一つ驚かされたのが、「本山葵(ほんわさび)」が調達されていたことである。風味を余すところなく味わう為「盛」で食すのが決りの新そばに山葵の存在は大きい。その山葵の良品、即ち「生」であるのが本山葵であった。実に心憎い素材起用、食に妥協しない平野氏らしいこだわりである。
しかしこの本山葵。京都といえども、そこかしこでは扱われていない。聞くところによると、わざわざデパートまで仕入れに行ったらしい。休日とはいえ歳末の多忙の中、ご足労頂いた氏の配慮にはただ謝するばかりであった。
駆出し者の決意 平野氏の好意と活躍により、早くもそば会の大半が整った。あとはメインのそばを用意するだけである。ここはある意味私の仕事なのだが、実のところ私は単なる「そば好き」なだけであって、そば打ちの名人でも何でもない。経験はあるのだが、未だ様にならない「駆出し」程度なのである。その様な私がこれらの良材に囲まれそば打ちを主導するのは実に心許ない。しかも、実情を知らない平野一家の声なき期待を緊(ひし)と感じるのである。
そもそも、「自分でそばを打つ」なぞと人に話すと、何かオーラの如きが生じるのか、玄人の如く見られることが多い。だが、「そばを打つ」のと「上手く打てる」のは話が違う。読者諸氏も私の様な者にはつらつら注意されたい。だが、そうは言っても既に出しや山葵も揃い、種物も揚げるのを待つばかりである。一同の期待に少しでも近づけるよう、努めてそばを打つしかない。
これから紹介する作業は、その様な私が主導したものだが、方法や手順自体は市販の指南書内容と変わらない。そば打ちは、その数を熟(こな)すことで習得する要素が大きく、画像や文章説明の多さは必ずしもその上達に寄与するとはいえない。よって、入門に限ればこの稿自体をレシピとして頂くことも十分可能かと思われる。
道具の準備、そして計量 先ずは道具を集めて準備する。揚げ物同様、そばも手際良く仕上げて直ちに食すのが一番である。よって予め道具を集め、方法や手順を確立しておいた方がいい。但し、我が家同様、平野家にも専用の物はない。強いて言うなら骨董店で購入したという捏鉢(こねばち)ぐらいである。
しかし、無くても何とかするのがこの企画。また、何とかなるのが世の常である。よって、例により代用品を駆使して行うこととなった。なお、各道具についての解説は、作業各項で行いたい。
では、用意した計量器を使って原料の計量を行う。特に水量は、そばの仕上りに影響するので慎重に行いたい。一般的な「二八そば」を作るので、各原料の重量割合は、「繋ぎ」2に対して「蕎麦粉」8、そして「水」が5となる。今回は乾燥重量500グラムの生地を作るので、それぞれが100、400、250グラムとなった。グルテンを含まないため単独では難しい蕎麦の繋ぎには、中力粉以上の粘りある種が使われるが、今回は共に頂いていた「春豊(はるゆたか)」なる強力粉を用いた。有難くも春豊は製パン等の世界でも著名な高級種らしい。
粉食料理の要的作業「篩い」と、奥深い「加水」 原料計量が終れば、製作開始である。先ずは、篩(ふるい)に二八の粉を入れ捏鉢上で篩う。篩は笊(ざる)等で代用できるが、今回使ったのは洋菓子用の篩器。把手内のレバーを握ると容器内の粉が動き、篩われる仕組みとなっている。
無くてもいいような作業だが、平野氏によると、「篩い」は和洋問わず粉食料理の仕上りを左右する要的作業なので行った方がいいという。そして、篩いが終った粉を捏鉢上で更に混ぜる。十指の先で行うとやり易い。
その後、用意した水の8割を投入する。注ぎ口の細い容器で満遍なく注ぐ。同じく指先で混ぜ合わせると、段々「だま」になってくる。そこで残りの水を入れ、引き続き混ぜて全体を集めて球状にしていく。初めは「だま」が指に付いてやり難いが、やがて馴染んでくる。なお、本職はこの辺りで水加減の微妙な調整を行うという。それは、大気の湿度をも考慮する程であるらしい。同様を行うには、数を熟し、慣れるより他なさそうである。
練り作業に於ける難関「菊練り」と「臍出し」 さて、「だま」から球状になり、それらしくなった生地を今度は練り上げる。捏鉢の底に生地を押し付け、体重をかけて圧するのである。掌の下部を使うと力がかけ易い。底の平坦と適度な重さにより安定して作業が出来る捏鉢の本領を改めて認識する。やはりこういった作業には未だ最良の道具であろう。押されて拉(ひしゃ)げれば、縁を中心部に集め、また捏ねていく。
そして表面に艶が出れば、「菊練り」を行う。菊練りは陶土練り等にも用いられる伝統の練り技で、生地内の水分を均等にし、粘度を高める工程に当る。掌の下部で生地の縁を細かく捻り押して菊花様にする。しかしまだ難しい技術なので、普通の練りを多めにして省略した。
その後は、表面の皺等を消し、生地内の空気を抜きつつ生地を砲弾型に均しまとめる「臍出し」を行って終了である。これもまだ上手く出来ないが、何とかそれらしいものにした。
安価な至便品を利用した「伸し」と「角出し」作業 練りの工程が終れば、「伸し(のし)」の作業に入る。「伸し板」の上に手で生地を押し付け円盤状にし、「伸し棒」で薄く広げていく。作業に至便な広い伸し板を所有している家は少ないだろうが、平野家には至便なものがあった。それは、専用の樹脂シートで、平らで広さがあればどこでも伸し場とすることが出来る代物である。しかも安価だという。早速卓袱台上にテープで固定して使用することにした。
伸し棒は菓子用の短いものを利用。本来は生地の広げ幅分の長さがあるといいらしいが、困る程ではない。要は、転がせる丸い棒ならなんでも利用出来、極端な話、菜箸1本でも構わない。ただし、それらの場合、1回に伸す生地の量は少なくした方がいい。我々も今回は4つに分けて行った。
作業は伸し板(シート)の上と生地に適宜打粉をふってから始める。円盤をそのまま薄い円状に伸ばしたあと、「角出し」を行って方形にする。円内に想定した×印の4端方向に向かって伸していくのである。これも、上手く仕上げるには経験と技が要るが、今は出来る処までとしておく。
出来れば専用庖丁を用意したい「切り」工程 次は、方形にして厚さ2ミリ程に整えた生地を折畳み、「切り」の工程に入る。畳む際は、生地同士が付かないように多めに打粉を施す。数尺四方の伸し生地を成す本職は、半折を繰り返して八つ折にするらしいが、今回の如きはそこまでする必要はない。そもそも折は「ちぎれ」の原因となるので初心者は減らした方がいい。
畳みの幅は刃渡りに収まるぐらい。刃は庖丁で構わないが、一振りで切り離せないとちぎれの原因となるので極力直線になったものを使う。家庭にあるものとしては、菜切庖丁がこれに近いが十分ではないので、諸本でも説かれているように出来れば専用を用意した方がよさそうである。私もそろそろ調達しようかと考えている。
切り作業は、生地上に小間板(駒板)という板を置き、それを案内に行う。刃を傷めない素材なら他で代用出来るが、生地が小さく量も少ない今回は使わなかった。そして生地の厚み程に均等に切っていくが、これも中々難しい。ここは開き直って、皆で行い、出来栄えの個性を楽しむのも一興であろう。今回は湯掻き以外の作業を子供も含めた皆で行う事となった。仕上りが不均質になる恐れもあるが、元より完全なものが成せる訳ではないので楽しむことにしたのである。
などと言いながら、実は仕上がりへの責任を転嫁出来ることになり、内心安堵していたりもする(笑)。
「湯掻き」と「種物揚げ」。完成へ さて、「切り」も完了したので、いよいよ湯掻きである。ちぎれないようにそばを集め、打粉を払い落して沸騰した湯に投入する。湯量はなるべく多い方がいいのは、麺類共通の要領である。今回は平野氏のイタリアン用パスタパン(深鍋)を使用した。沸かすのに時間が掛かるので作業前から準備しておいたのである。
茹で時間は投入して再沸騰後、約1分というのが通説。風味や香を逃さない為、火が通ればすぐ上げるということであろう。しかし切り幅が不揃いだと、当然湯掻きムラが出来る。その場合は、時間を微調整する他ない。やはり「切り」や、その結果に影響する「練り」には長けた方が良いようである。
ところで私が湯掻いている間、平野氏が種物の揚げ作業に入った。その完成をそばと同時にする為である。沢山の種を次々と手際よく揚げていく様は実に頼もしい。さすがである。「天麩羅会」への企画変更すら頭を過るのであった。冗談はさて置き、数度に分けて湯掻いたそばを笊であげ、流水で洗って完成させる。茹で湯は「そば湯」として後で楽しむのでとっておく。
その奥深さが窺える、寒中そば打ちの勧め さあ、全てが整った。あとは食すだけである。揚げたての天麩羅がたまらなく旨い。肝心のそばの出来であるが、ちぎれ多くして満足出来るものではないが、色艶に長け、中々の風味であった。平野一家にも何とか好評得た。やはり材料の良さと鮮度が効いたのであろうか。課題は多いが、体裁を成せたのは何よりであった。これも、そば名人や平野一家のお蔭であろう。
以上に見た通り、そば打ち自体は決して大層な作業ではない。奥深いものではあるが、省略しても何とかなる扱い易さも有している。更に小麦の麺類とは異なり、発酵等の作業が要らないので、極めて短時間に仕上げられる。即ち、本来はお手軽なもの、インスタントな食品なのである。それは、そばの一般化に貢献した「そば屋」の当初の姿、「振り売り」の様にも見ることが出来るであろう。
妹からの連絡によると、先頃流氷が接岸したという。我が蕎麦粉の故郷、道東も最寒期に入ったようである。かの「福そば」にかかわる節分神事や旧元日が近い京都市街も寒さに閉ざされがちとなった。かの地程ではないが外出するのも憚られるこんな時期こそ、そばを打ち、食してみては如何であろうか。 手軽だが栄養価の高いそば。最も厳しいこの時期、1年の安泰さえ託されたその奥深さの一端が窺えるかもしれない。