第拾記 瀟洒!モダン・シェルフ
人事更新の春にひもとく引越し逸話
一際寒さが感じられた今期の冬も終り、諸花瀾漫の春がやってきた。目にも冷ややかな北山の白雪(はくせつ)は知らぬ間に消え、梅に白蓮、そして桜を順に咲かせた春陽が、街に山野に降りかかる。約束のことと知りながらも、その確かさに安堵と喜びを感じている人も多かろう。
「季」は、正にまた大きく変転したのである。変転といえば、春はまた人事更新の季でもあった。入学・入社に進級・異動、そして卒業・退職等々……。それらにかかわる重要な行事といえば、転居、即ち「引越し」が挙げられよう。今季もまた、全国各地で数多のそれが行われたに違いない。
春に限らず、そして洋の東西を問わず古より行われてきたこの引越し。人間生活の基本的行為であるその歴史を詳らかにすることは難しく、また愚かしいであろう。よって今回は史上に現れた引越しに関する逸話を紹介してみたい。
楽聖の非凡ぶり 史上に於ける「引越し」といえば、かの楽聖ベートーヴェンを思い浮かべる人が多いのではなかろうか。彼が所謂「引越し魔」であったことは、よく知られるところである。生涯に於けるその回数は実に60回以上とも、70回以上ともいわれている。
回数が正確にわからないのは、住所不明の時期が多々あった為と思われるが、1年に1回以上行っていたことは確実のようである。また、それだけの引越しを行うこととなった原因も諸説あって面白い。
例えば、作曲用に行うピアノ演奏の音や歌声を家主や隣人に嫌われたことや、部屋を水浸しにする粗野な行水を嫌われたこと、そして整理整頓が出来なかった為、散らかれば転居していた等々である。そもそも、気難しい性格故、家主や隣人との衝突が絶えず、些細な部屋の欠陥も我慢出来なかったことも大きく影響しているようである。そして、彼はその引越しの最中にあっても愉快なエピソードを残している。
ベートーヴェンは夏季の間、郊外での生活を行うことを常としていたが、ある年の、そこへの引越しの際、作曲に夢中になってしまい荷車とはぐれたという。当初は家財を満載した荷車を先導しつつ、目指す郊外の街まで歩いていたらしいのだが、気づかぬ内に他所へと脱線し、ほったらかしとなったのである。街には着いたが、住所を聞かされていない車屋は、一向に現れない荷主に怒り呆れ、中心広場に貨物を積み上げ帰ってしまったという。
暗くなって我に返ったベートーヴェンがそこに辿り着いたのは、既にその後のことであった。全く以て、呆れさせられる話ではあるが、正に大芸術家の創作上の非凡ぶりが知れる興味深い逸話でもある。
洋楽と浮世絵、両大家の奇妙な類似 このベートーヴェンを凌ぐ「引越し魔」は他にいるのであろうか。なんとそれは、我が東洋、しかも日本にいた。かの江戸後期の浮世絵師、葛飾北斎である。
浮世絵研究家、飯島虚心が関係者に取材して成した『葛飾北斎伝』(明治期刊)には、90年の生涯中93回の引越し歴が記されている。しかも、75歳時に56回目だったらしいので、常人では考え難い老境でのその繰返しが知れるのである。面白いのは、ベートーヴェン同様、部屋が散らかると転居していたらしいことである。生前、既に芸術家として天下に名を馳せながら、その費用に追われ、貧窮に陥っていたのも、また同様であった。
引越し魔世界一 ベートーヴェンの引越し回数は多く見積もっても80回までとされるので、記録された史上人物としては北斎が世界一の引越し魔となるのであろうか。しかし、まだその上をいく人物がいたのである。しかも、それはまたこの日本に於いてであった。その人の名は寺町三知。江戸中期の俳人で、百庵とも称した。この「百庵」の名こそ、彼の転居癖を表したものであったという。
江戸後期に刊行された『続俳家奇人談』(竹内青青著、八朶寥松補校)によると、歳をとっても年に数度転居していたこともあったという。彼は北斎に及ばぬ80半ばという歳で没したが、前出の北斎伝によれば、転居100回を成し得たという。但し、北斎自身が語ったところによれば、その数は「90有余回」であった。いずれにせよ、北斎を上回っていたことは確実のようである。その為、北斎も百庵に憧れ、転居100回を目指していたという。
転居約100回という究極の引越し魔、百庵の存在が判明した。よって、史上人物としては、彼が世界一といえるのではなかろうか。しかし、世界は広い。ひょっとすると更なるつわものが、密かにその認定を待ちわびているのかもしれない。一応、東洋史上等も探ってはみたが、今のところそれらしき人物は見当たらなかった。もし、ご存知の方がおられれば、ご教示頂ければ幸いである。
迷惑な引越し さて、上で取り上げた「引越し」エピソードはあくまでも個人の行いであった。その回数が常軌を逸したものであろうがなかろうが、影響を受けるのはその人自身か、せいぜい家族ぐらいである。しかし、それが公人、しかもその地位が高ければ必然その影響は広範に及ぶ。その最たるものが、帝王による京邑の引越し、即ち「遷都」である。莫大な資力・労力を要する遷都は、歴朝の一大事業である。よって、通常は頻繁に行われること有り得ない。しかし、日本にはそれを行った人物がいた。奈良朝の帝王、聖武天皇である。
彼は僅か6年間に4回もの遷都を行った。恭仁京や難波宮、そして紫香楽宮や元の都平城京に対してである。既にあった平城京はさておき、難波宮は既存宮の大改変、そして残り2京は全くの新設という大事業となったのである。しかも、その2京は並行して工事が行われたらしい。当然、経費や人的負担は増大し、世情不安を齎した。
この異様ともいえる聖武帝の「連続遷都」の理由については諸説あるが、皆決め手に欠け、謎めく様を払拭出来ずにいる。しかし、1つ確実だと思われるのは、庶民を含めた当時の人々にとっては甚だ迷惑な事態だったということであろう。実際、不満分子に因るとみられる放火事件も頻発したらしく、不謹慎ながら同心の念すら生じる。回数こそ少ないが、社会に多大な影響を及ぼす遷都を不可解に繰り返した聖武帝も、ある意味「引越し魔」といえるのではなかろうか。
自分を窮せず、他人を害せず良き引越しを 人事更新の春に因み、歴史に記された「引越し」のエピソードについて調べてみた。そこからは、「引越し魔」とされる史上人物達の、不可解かつ滑稽な生き様が見出された。そんな彼らには呆れさせられたりもするが、どこか憎めず、また憧れのようなものを感じてしまうのは、私だけであろうか。
さて、この春引越しをされる、または既にされた読者諸氏も多いことであろう。引越しはその経験回数に関係なく、自分を窮せず、また他人を害せずして楽しく行いたいものである。引越し魔であった、先達たちの人生を教訓として……。
清々なる春を感じる小さな模様替え
人々に喜びと安堵を齎すも人事更新の忙しさもある春。しかし、御蔭様でこの春無事古家生活2周年を迎えた私に引越しの予定はない。よって今回の造作は、転居ではない家の更新「模様替え」に関するものを行ってみたい。模様替えといっても大層なものではない。以前から必要を感じていた台所への調味料置き場の新設である。
用いたのは古いガラス製のシェルフ(棚)。1段限りの単純構造で、必要最低限の調味料類が載せられる小型のものである。別に料理が趣味という訳ではなく、大した調理もしないこの家にはちょうどいい大きさである。あと、極力ものを露出させないという方針もあった。大きな棚だとつい物を並べがちになってしまう。出し入れが面倒と思われるかもしれないが、必要な時に取り出して普段仕舞っておく方が、整頓や掃除といった面で結果的に楽出来る。
シェルフは昨年末近所の町家整理で出たもの。受け金具の装飾欠損や酷い汚れ様から当初は捨てられる予定であったが、昨今の製品には見られないその瀟洒な姿が気になり、取り置いていたのである。
「マジックリン」により証された良き素性 単純な構造で小型、そして施工も簡易に済むものなので、すぐに取り付ければいいのだが、元はゴミ同然の状態だったのでそうはいかない。先ずは、触れるのも躊躇われるその汚れを落さなくてはならなかった。長年に及んで付着した埃やヤニが厚く下地を覆って、その色すら判別出来ない状態だったのである。
そんな頑強な汚れを落とす為に使用したのは「マジックリン」という台所用洗剤。昔からある良く知られたものだが、私が知る限り、こういった汚れには最も効果ある薬剤である。但し環境への負荷が高い合成洗剤なので、極力水に流さないようにする。古新聞上等で塗布し、暫くして汚れが浮いてきたら古布で拭って汚れ共々焼却ゴミ化する。あと、食器用の中性洗剤とは異なりアルカリ性のものなので、皮膚への影響等にも留意した。
マジックリンの効果によって厚い汚れの下から現れたのは、白ガラス製の珍しい棚面であった。やはり素性の良さを直感した当初の見込みに狂いはなかったのである。
棚の雰囲気要因、受け金具装飾の復元 汚れも落ちて実用に対する見通しも立ったが、まだ受け金具の装飾欠損の問題があった。左右2個ある金具の内1つに、補強兼用装飾の欠損があったのである。金具自体が頑丈で、しかも小物用途の為そのままでも使用出来たが、見た目のバランスが悪い。また装飾自体が、今は得難いこの棚の雰囲気要因となっていたこともあり補修することにした。装飾が鉄棒を曲げ成した簡素なものであったことも幸いした。
S字形の欠損装飾は、元はL字の受け金具に2点溶接されていた。よって装飾を復元し、同様に取り付けることとした。復元には当初品と同じ鉄材ではなく、曲げ加工が容易なアルミを採用することにした。用意したのは、当初品に近い4ミリ径の丸棒。ホームセンターにて1メートル200円前後で購入した。これを必要な長さに切り出し、ペンチやプライヤー等で曲げて、当初品と同様の形状に仕上げた。
復元品のはんだ付け。基本を忘れた失態発生 装飾の復元が終れば、次は金具への取付けである。当初品同様、溶接すればいい訳だが、ここではその手軽な方法「はんだ付け」を行うこととした。電子工作で御馴染のそれは、錫や鉛等の合金である「はんだ」を熱で溶かして金属同士を接着させる方法である。一般にいう溶接とは異なり強度に劣るが、それが要求される性質のものではなく、樹脂系接着剤等よりかは優れ、耐久性も高いことから採用した。
融解用の「はんだごて」は、手持ちの電気式電子工作用を用いた。通常、電力15ワット温度400度程度の能力だが、ブーストボタンを押すことにより80ワット550度程まで引き上げることが出来るものである。そもそも、金属接着用途としては、500度以上の能力を有すものの使用が望ましい。所謂「板金用」と分類されるものであるが、ホームセンター等でも比較的安価に入手できる。
取付け作業をする前に、はんだの付きを良くする為、金具の錆を落す。全ての錆を落すのは大変かつ趣を損なうので、接着箇所のみをマイナスドライバーの先で磨いた。そして、接着作業に入ったが、なぜかつかない。幾度も挑んでいるうち、なんと金具から伝わった熱により、棚板が割れてしまった。最悪の事態に陥って漸く思い出したのは、アルミがはんだ付けに不向きな素材だったことである。はんだ歴10数年の元本職としては、基本を忘れた実に恥ずかしい限りの失態となった。
伝統工法「金継ぎ」による棚板補修 金具装飾は疎か、肝心の棚まで破損してしまったので一時は廃棄も検討した。しかし、幸い破損は金具取付け部の外側、即ち殆ど荷重のかからない箇所で、しかも欄干金具による補強も期待できたので補修することにした。
その方法は、第弐記でも触れた「新漆」による伝統的茶碗修繕法「金継ぎ(きんつぎ)」であった。接着力が高いとされる「透漆(すきうるし)」を破断両面に塗って接合し、数日かけて乾燥・固着させるのである。その後、余分な漆をカッターで削除するだけであるが、茶碗用の余材があったので、見た目も改善できる、銀継ぎ仕上げを施すことにした。
先ずは継目上に、耐久性に優れるとされる「赤漆」を塗る。15分程経って少し乾いた頃、乾いた別筆を用いて純銀粉(銀泥)を軽く押えるように付着させる。その後は10分程毎に表面を軽く筆で撫ぜて余分な粉を落しつつ馴染ませることを何度か繰り返す。そして数日置いてから真綿等で磨いて完成となる。この方法は所謂「蒔絵(まきえ)」技法に属するもので、本式の「金継ぎ」同様の本格的なものである。奥深く、また問合せも多いので、別の機会にでもまた詳細を紹介したい。
準備した復元品を活かしつつ再度はんだ付け なんとか棚板を復活することが出来、はんだ付けの問題まで戻れた。はんだ付けが可能で、加工が容易な銅や真鍮材での作り直しも考えたが、折角準備した復元品をふいにするのは心許無い。そこで思いついたのが、はんだ付け可能材を仲介させてアルミを固定する方法であった。以前、楽器改造に用いた真鍮の薄板があったが、これを小さく切ってアルミに巻き、金具とはんだ付けして固定するのである。
早速、金鋏等を使って用意し、施工した。結果は実に簡単で、件の苦労が空事のようであった。同じ金属とはいえ、個々の性質はないがしろには出来ないものである。因みにはんだ付けは、接合面それぞれに前以て少量のはんだを付けておく「予備はんだ」を施し、よく加熱して手早く済ませた。要は簡単に外れないよう、しっかり熱をかけて、はんだと基材を合金化させるのである。はんだ付けもまた奥深いものなので、金継ぎ同様、機会あればまた詳細を紹介したい。
瀟洒!モダン・シェルフ登板 基本を忘れた失敗により、一時は企画そのものが潰えかけたが、何とか完成出来た。早速、台所の希望箇所に木ネジを用いて取り付けてみた。やはり見立て通りの役者、小物ながら中々の存在感を放っている。周囲のタイルや愛宕札等の「昭和もの」「町家もの」ともよく馴染んでいる。シェルフが使われた時代・環境に適っているからであろうか。ともかく、装飾をオリジナルに復した甲斐は十分あったのである。
人事更新の春、引越しの代りと言うにはあまりに細やかではあるが、暮しに変化を与える小さな模様替えを行ってみた。この春、暮しを改めた多くの人々同様、古いシェルフが新しい時代と環境にてその瀟洒ぶりを復したのである。それは、暮しを改めなかったこの私にも、清々新鮮なる春到来を感じさせてくれるものとなった。