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第拾壱記 気概 !家号扁額

冷やかな風流

曖昧な梅雨明け以前から既に始まっていた長い猛暑も一息ついた。今年も確実に夏は過ぎようとしている。しかし、まだまだ暑いといえる日が続いているのが東北以南の日本、そして京都である。

空気こそ随分軽くなった気はするが、未だ威を揮う残暑の陽射し。そんな威力から逃れんとして入った出先の家影(やかげ)で、頭上よりこちら見下ろす不思議な板と出会ったことはないだろうか。寺社や個人宅軒下に掲げられた大きさや形も様々な板。そこには決って徒(ただ)ならぬ含蓄をにおわせる一文が記されている。建屋にとっては僅か小片。しかし、その中央上位にあって圧倒的な存在感を放っている……。

板の名は「扁額(へんがく)」。建屋の名称等を記した、言わば建造物の名札である。「扁」とは薄い木片、「額」とは高所に掲げるべき絵や文字をさす。よって、本来は「額」一字のみでも表された。建屋名称に対する使用に限れば、「題額」や「題署」、または「署書」とも呼ばれ、建屋や場所の性質により「門額」や「寺額」などとも表現される。

しかし、何れも肉筆が精確に再現されているという点に変わりない。そしてこの極めて東洋的といえる特徴こそが、その存在感の主体となっている。今回は日陰にありながら残暑光の如き威を放つこの扁額について調べてみた。

扁額の起源と歴史  扁額の起源については定かではないが、文字学の祖、後漢の許慎(きょしん)が著した初の漢字字書『説文解字(せつもんかいじ)』(成立2世紀前後)に、秦の始皇帝が定めた小篆書体8種の内、「署書」と呼ばれた題字用書体が紹介されているので、紀元前3世紀末頃にはあったようである。つまり、その源はやはり大陸であった。

典拠不明だが、かの「寛政の改革」で知られる松平定信が編纂した古物図録『集古十種(しゅうこじっしゅ)』(成立19世紀前後)にも「題署の体法は秦漢に起こる」と記されている。元より「名札」であった題署自体はそれ以前から存在していたと考えられるが、細密な官署分けとその運営が初めて必要となった法治中央集権国家、秦と漢に於て発達したとみるのは、妥当かと思われる。

さて、扁額が実際に建屋に掲げられていたことが窺えるのは、三国時代の魏(3世紀前半)の頃である。晋の衛恒(えいこう)が記した『四体書勢(したいしょせい)』(成立3世紀後半)には、魏の宮殿は全て書の名手梁鵠(りょうこく)の額で飾られていたことが記されている。

そして唐代(7~10世紀)に入ると、多くの記事上で見られるようになり、その盛行と標準化が窺えるのである。鍾紹京(しょうしょうけい)などの名手の活躍は勿論、かの玄宗等、皇帝自身が筆を揮う例も現れた。能書や貴人が揮毫するという今日まで続く様式は、この頃確立されたようである。

日本に於ける扁額の歴史  起源不詳だが、扁額の源は大陸中華、しかも秦漢時代に遡る可能性があることが判明した。では、我が日本に入ってきたのはいつ頃のことであろうか。残念ながらそれも不明であるが、最古のものとしては、奈良東大寺にあって聖武天皇宸筆と伝わる8世紀中葉のものが現存している。その他、同じ奈良時代のものとしては、同唐招提寺等にも残存するが、何れも所謂「寺額」のみである。

宮殿の建造物への取付けが確認されるのは、平安時代に入ってからである。史書『続日本後紀』(成立9世紀後半)等の記述によると、弘仁9(818)年、嵯峨天皇の勅令により朝廷の儀礼・衣服が唐式に改められ、宮殿の諸門諸堂に新額(唐式の?)が付けられたという。説話集『江談鈔(ごうだんしょう)』(成立12世紀初)や書論『夜鶴庭訓抄(やかくていきんしょう)』(成立12世紀末)等に記されるその揮毫者は、嵯峨天皇・空海・橘逸勢(たちばなのはやなり)の「三筆」らを筆頭に、実に錚々(そうそう)たる人物が並ぶ。

嵯峨天皇は自らその制作に加わり、一気に大陸の流行を導入したのであろうか――。しかし、寺額のみとはいえ、既に奈良時代から体裁を整えた扁額が存在している。それなら宮殿にもあったのではないか。そもそも現存しないからといって、寺が宮殿に優先していたとは考え難い。嵯峨天皇が導入したのは、空海らが唐より持ち帰った「飛白(ひはく)」等の書体や、宮殿額宸筆の流行だったのではないか――。

そう考えると、大陸に同じく、法治中央集権制(律令制)の導入と、その運用に必要な細密組織(百官)を収める都城出現の頃、即ち初の大陸型都城「藤原京」造営の7世紀末頃が日本に於ける扁額導入の始まりだったのではないか、との推測が立ち上る。何れにせよ、日本に於ける扁額使用は、大陸型建造物である「佛寺」と「都城」の導入に関わっている可能性が高いといえよう。よって、その時期は、日本に佛寺が現れた6世紀後半以前を遡る可能性は少ないとみられる。

扁額の書体と変遷  ところで、この扁額の書体はどういった変遷を辿ったのであろうか。前述の通り、初めに記録された扁額の書体は、秦の「署書」なる小篆体の一種であった。7世紀成立の史書『晋書』衛恒伝によれば、小篆の簡略体「隷書」が採用された漢代にあっても、題額には小篆が使用されたという。前述した魏の梁鵠もそれを用いて題署を成したとされ、扁額用の書体として定着していたことが窺われる。

よく知られる飛白体については、史書『宋史』太宗本紀(成立14世紀中葉)にある、北宋淳化2(991)年に太宗が官房「翰林院」に賜わした「玉堂之署」額が管見での史料初出である。どうやら、扁額書体は篆書から始まり、その派生種である隷書や飛白を加えながら、今日見るような様々な書体使用が行われる様になったとみられる。

日本に於いては、先に紹介した聖武天皇勅額の「楷書」や唐招提寺額の「行書」体使用から始まる。しかし、平安期以降の古物に卓越するのは飛白と隷書である。飛白は隷書と同じく漢代に考案されたもので、豪放強勢な線と著しい字形強調を特徴とする。この様な書体が流行したのは、その装飾性や威厳演出、そして護符的呪術性付加の為とみられている。

事実、皇族や高僧等の貴人の書を用いる事によって施設の権威向上に資しており、14世紀に著された書論『麒麟抄』等にも、寺や塔の額は「魔縁降伏」の為、鬼形にすべきことが記されている。そして、飛白や隷書の卓越以降、即ち中世以後は、大陸と同じく様々な書体使用が行われる様になった。

扁額にかかわる逸話  記録への登場時から聖俗の権威と深い関りを持ち、加えて美術的価値、呪術的神秘性を有した扁額には、また様々な逸話が伝わる。最も著名なものが、説話集『今昔物語集』(成立12世紀前半)にある、平安京「応天門」額字揮毫に於ける点不足を空海が筆を投じて補った「弘法にも筆の誤り」の話であろう。

その他、扁額に関する逸話を多く紹介するのは13世紀成立の説話集『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』である。そこには、かの三筆の一人で後に謀反嫌疑の中に没した橘逸勢の門額が霊を以て人を害した話や、空海の遺筆門額を嘲った小野道風が、中風を患う祟りを得た話などが載せられている。これらの怪異譚も、扁額に担わされた呪術性の傍証と見做せよう。

一方、大陸に於ける興味深い記事は、寺額のない寺が度々国によって廃されたものである(『舊五代史』唐書明宗本紀と周書太祖本紀(成立内容共10世紀)、『宋史』仁宗本紀(成立14世紀。内容11世紀)等)。租税逃れの温床と化した佛寺を抑制する為の廃佛事件を想わせるこの記事から窺えるのは、扁額が国家認定施設に対する免状であった可能性である。

これらは、その存在意義に未だ定説がない日本の「定額寺(じょうがくじ)」の問題とも通ずる可能性がある。詳しくは不明だが、これも扁額と権威との深い関りを示す話であろう。

偶然ではなかった扁額の涼  今では茶室や個人宅にまで使用されるようになった扁額。その来歴を調べてみたが、風雅な印象とは裏腹に権威的で恐ろしい姿も明らかになった。圧倒的な存在感と威を放つその姿には歴史の裏付けがあったのである。

公報手段が発達していなかった上古、文字伝達はその最上手段であった。故に、文字は前近代専制国家の恐るべき権威そのものともなった。単なる事務文言である「急急如律令」入りの木簡が、役割を超え護符として今も利用されるのは、その好例である。それらも考慮すると、扁額もまた強力な文字の力を用いた、冷艶な装置の1つだったように思われる。

残暑を逃れて接する冷やかな風流―。そんな扁額下に涼を求めたのは、強ち偶然ではなかったのかもしれない。

 

「一幅の涼」扁額を作ろう

まだまだ暑い京都、そして日本。そんな暮しの中に一幅の涼、扁額を採り入れてみよう。勿論、史章で垣間見られたような冷厳なものではなく、あくまでも風雅なものとしてである。端くれに過ぎないが、伝統建築の型を継ぐ我が古家にも、よく馴染む装飾となろう。

しかし、寺社宮殿のものは猶の事、長い歴史を持つ扁額には何かと決りごとが多い。制作の経験がなく、普段筆すら殆ど握らない私には本来作り得ないものである。だが、そうかといって止めてしまえば何も始まらない。よって、そんな私にでも出来る簡易な方法で臨むことにした。最低限の「型」を守りつつ、「気楽に」である。

制作構想―場所・性質・形状・字句―  制作を始めるに当って、先ずは諸々の構想を行う。簡易に行うとはいえ、深長さを以て視線を集める扁額には、ある程度のそれが必要である。掲げる場所と額の性質・形状、そして記入する字句の選定等がその主要なところであろうか。今回は、表戸奥の内引戸(内玄関)上に掲げる簡素な家号額とすることにした。

扁額の深長さと存在感を決める最重要要素たる字句(家号)は、既に決っていた「玲居(れいきょ)」。この名には、字句の内容、即ちその深長さの根源ともなる3つの由緒を設定している。1つは、格子玄関横に三角の妻屋根部屋を持つ平屋家屋の表形状が字形に似ていること。格子戸を扁の「王」、妻部屋を旁(つくり)の「令」と見立ててである。但し実際は扁旁が逆になっている。

2つ目は、以前この家に麗人が独りで住んでいた伝えがあること。「玲」の字義は、美玉やその音であり、清く麗しい意を持つ「令」の同系である。即ちそれに関連させた。古家にうら若い美女が独居していたとは少々怪異めいた話に感じられるかもしれないが安心あれ。麗人はその後、幸せに首都方面に嫁がれたらしい。そして3つ目は、かつて大陸内奥に存在したという「令居」なる古代都市名との類似である。

壮大に気概を託す  今を遡ること約2130年前。名将衛青や霍去病(かくきょへい)らの活躍により遊牧帝国「匈奴」との戦いに決定的勝利を得た「漢」は、初めて黄河西方漠地への進出を果たした。所謂「河西」と呼ばれるオアシス通廊地帯のそこは、酒泉や敦煌等の要衝を擁しつつ更なる西方「西域」との連絡を叶える要地であった。「令居」とは、そんな河西東端に設けられた最初の拠点で、中華文明が初めて内陸アジアに進出した記念すべき都市だったのである。しかし、歴史的意義あるその新街もやがて永年の歳月に没し、痕跡すら失われてしまう……。

拙宅の家号は、そんな輝かしくも謎めいた古代要衝と関連付けたのである。実は、拙宅は育ちの家から見ると初の西方転居先に当り、自分の意思による住まいとしては最西に位置する。つまり、漢の西方進出の拠点である令居に対し、自らの西方(京都中枢)進出の気概を託したのである。僅かな木片への由緒付けとしては壮大過ぎる嫌いもあるが、こうした作者の「志」を含める行為は、場所の故事への関連付けに況して重要と思われ、東洋文化の真髄にも通じる行為と言えよう。

PCを利用したレイアウト  字句が決れば額面のレイアウトである。今回は額本体に白木の無垢板を利用することとなったが、それへの文字配置等を考える。その下準備に、書体の選定と額の調整を行っておく。書体は第3の由緒とも合う漢代生れの隷書体に決定。額調整はルームマーケットの内装端材のタモを任意の大きさに切って300番程の紙ヤスリで全体調整した後、ワイヤーブラシによる木目の浮きだし(うづくり技法)と、ナイロンブラシと乾拭きによる艶出しを行って仕上げた。

レイアウトは本来紙上に筆を以て行うものだが、今回はそれに自信のない私に合わせた新しい方法を採ることにした。それは、PC即ちコンピューター上で行うことであった。先ずは調整した額をイメージスキャナーに読み込ませ、コンピューター上にそのカラー画像を作成する。そして、その画像を画像処理用ソフトウェアに取り込み、字句や落款、印形を配置してその大きさや場所を考えたのである。この方法の利点は、そうして出来たレイアウトをカラープリンターで原寸印刷し、完成に近い状態で試験掲示出来ること。大きさや色等の確認が、簡便に行えるのである。

そのような方法で決定したレイアウトは、「玲居」の大書に、和年号・時候名・堂号を併記した落款、そして引首・堂号・雅号の3印を入れたものとなった。落款や印の書式は、伝統的な様式を参考にしたが、時候名の字句だけはオリジナルを採用して新風を入れた。そもそも落款や印等の書式も様々あって複雑であるが、詳しく知りたい場合は、既存の扁額や書道関係の資料等を当れば色々と情報が得られる。

額面制作でも新式採用  印刷結果に納得出来、レイアウトが決まれば、額面の制作となる。ここでも色々と新式を採用する。先ずは確認用の印刷紙を裏返し、裏写りした字句や印形等を強く鉛筆でなぞる。そしてそれを額板にあて字句等を転写する。2B等の濃い鉛筆を使い、表側から馬連(バレン)や布等で強く擦るのである。中々明瞭には転写出来ないので、薄い部分はその後、直接額面上で補筆する。

転写が終れば色入れである。本来はその前に彫刻刀などで刻字しておくのだが、今回は退色・剥離が少ないという新式顔料の性能を頼って省略した。採用した顔料は「アクリル・ガッシュ」。水溶性だが、乾燥後は耐水・耐候性を発揮し、本来使われる岩絵具同様、下地隠蔽性もある勝れ物。しかも、希釈や器具洗浄は水のみで済むため、経済・環境負荷も少ない。今回はそんなガッシュの中でも、岩絵具に似た粒状感と伝統色を再現した、ターナー社のジャパネスクカラー・シリーズを用いた。その価格は、画材店で1本250円前後であった。

ガッシュでの着色  ガッシュの濃さを水で調整し、筆で額面に塗布する。転写線を隠蔽しつつである。ひと塗りで下地が隠蔽され、立体的な粒状感が出た。中々の趣である。実はその辺りの性能についてはあまり当てにしてなかったので嬉しい誤算となった。落款と印形の文字は、細かいため楊枝の先を利用して着色した。また引首印と堂号印の陰刻表現も難しい為、赤地に下地色の字入れを行う方法を採った。

使用した色名は、引首・堂号印の赤地が「猩々緋(しょうじょうひ)」、その下地色文字が「香色(こういろ)」、雅号印が「臙脂色(えんじいろ)」で、落款が「消炭色(けしずみいろ)」。肝心の屋号は、「千歳緑(せんざいみどり)」と「淡水色(うすみずいろ)」を混合させて、シリーズになかった「緑青色(ろくしょういろ)」を作り、用いたのである。勿論これらは自由な選定で、特に決りに則ったものではない。

印形の書体  ところで、扁額などに使用される印の書体について気になった人はいないであろうか。普段目にする殆どのそれが、一般の人には解読し難いものと思われるからである。扁額に限らず、凡そ印には「篆書」か、隷書の派生種「古印体」が使用される。解読が難しいのは、古式である篆書の使用が扁額に於いて卓越しているからである。しかし、難解ながら「象形」の原初を継ぐ、この篆書であるからこそ、小さな印形に命の如きが備わり、結果扁額全体が引き締められるともいえる。

よって古式に倣い、引首引と堂号印に於いてそれを使用することとした。しかし、篆書の使用には少々労力が必要である。用いる字体の篆書形を専門書で調査しなくてはならないからである。最近では、ネット上にそれへの変換を行う機能を有したサイトも存在するが、基本は『説文解字』等の字書を参照する。文字の成立ちや、正式な字体を知れば、人目に晒される頭上に憂畏なく掲げられるからである。

額紐・額受・紐掛にて取付け  さて、着色が終れば愈々取付けだが、その前に額紐を付ける。額裏にそれ用の金具を2点取り付け、その間に適当な紐をわたすのである。その位置は、壁掛けしたとき額面が少々下向きになるよう、上辺から3分の1辺りの所に定めた。金具はホームセンターで入手した百円前後の専用品。ネジ付であったが、板厚が薄く、表まで貫通する恐れがあったので、手持ちのネジ用座金(ワッシャー)を2枚入れて、食い込み具合を調整した。

次いで取付け場所の壁に、額受と紐掛け用の金具を取り付ける。額受は「昭和折」と呼ばれる幅があるL字金具を用いた。ホームセンターで2個入り200円程、釘先がネジ式のため手回しで取り付けられる新しいタイプである。紐掛けは同じく捩じ込み式である手持ちの洋灯吊フックを用いた。以上が終り、遂に扁額を壁に取り付ける。紐掛けに額紐を掛け、額受に乗せたのである。額面の傾き具合は、額紐の長さを変えて整えた。

気概!家号扁額完成  こうして扁額が完成した。簡易に作った割には、よく出来たのではないかと自賛する。明瞭な木目を持ちながら淡白な風合を醸すタモ材が、少々日本離れした扁額の由緒や隷書体とも馴染み、いい塩梅である。この風合なら、残暑の今に限らず、清涼の秋気、即ちこれからの季節とも合うのではなかろうか。

しかし、その最大の効能は、合板貼りで変哲のない玄関内が何処か引き締まったように感じられることである。やはり、扁額に込めた気概がそうさせるのであろうか。小さな古家の、涼やかな木片に宿る壮大の熱意。日ごと暑を減じゆく季節にあって、この熱だけは冷まさないようにしたいものである。

現存最古と目される奈良時代の扁額に記された「金光明四天王護国之寺」。即ち東大寺の別名で、その西大門に掲げられていた聖武帝直筆伝承をもつもの。額本体は木製で、装飾枠を含めた大きさは縦横各2.9メートルに及ぶ。線刻された文字部分のみが当初の部材とされるも、最近全体が当初の規格「天平尺」で構成されていることが判明した。 松平定信が編纂した江戸後期の古物図録『集古十種』に掲載された模写図より(但し、国書刊行会による1908年の復刻版を利用)。
家号扁額の由緒の1つ、古代要衝「令居」の推定地、甘粛省永登県付近の丘陵に残る長城遺構(金強長城)。明代(16世紀末)のものとされるが、古代長城「令居塞」遺址も近くを併走するという。両長城はこの北方至近で黄河水系と内陸水系とを隔てる烏鞘嶺(標高約3000m)を越える。遠く西域とも繋がる内陸乾燥地帯の始まりである。令居はこの兵家必争の地に砦として築かれ、後に県城(街)と化したという。
PCを利用したレイアウト作業。今回は画像処理に業務用描画ソフト「Illustrator CS」を使用したが、簡易な作業なので、周辺機器付属のソフトやフリーソフトでも十分こなせる。
使用した「アクリル・ガッシュ」。左から、「猩々緋(しょうじょうひ)」、「臙脂色(えんじいろ)」、「千歳緑(せんざいみどり)」、「淡水色(うすみずいろ)」、「消炭色(けしずみいろ)」、「香色(こういろ)」となっている。
ガッシュによる家号字句の着色。ガッシュの隠蔽性と塗膜の厚みが判る。更に塗り重ねるか、胡粉やモデリングペースト等を下地にするなどして「高蒔絵」の如き浮出し処理するのも面白いかもしれない。
着色後の落款印2種。堂号「銀嶺」と雅号「晴嵐」を、色・陰陽・書体を分けて表現した。文字入れには楊枝先を使用。陰刻の堂号印は「猩々緋」の下地上に「香色」で文字入れ。但し篆書の描画困難箇所は省略した。
着色後の引首印「晴嵐」。描き方は堂号印に同じで、やはり字画の一部をやむなく省略してある。「晴」字の右辺が「青」ではなく「星」の篆書体になっているのは、古字がそうであった為。篆書使用の難しい処である。「引首印」とは書画の右上に捺される装飾的な印。俗に「関防印」とも呼ばれるが、本来は違うものだという。
表面の全着色が終った扁額。家号字句はPC内蔵の書体が元であるが、画像ソフト上や着色時に少々アレンジしている。左端落款の時候名にも型に嵌らないオリジナルを採用。
額裏面に取り付けた額紐金具の片側。付属ネジだけでは表まで貫通する恐れがあったので、金具と額の間に座金を2枚入れて調整した。
金具に張りわたした額紐。手持ちの適当な平紐を用いた。額を壁掛けした時の傾斜具合は、この紐の長さ(張り)で調整する。
内玄関上部の壁面に取り付けた、紐掛(上1点)と額受(下2点)の金具。双方共ネジ式の為、薄い合板面にも取り付けられる。
完成した家号扁額。涼やかなその姿故か、または込められた熱意によるものか、変哲ない合板貼りの玄関内が引き締まったように思われた。
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