HOME » 町家コラム » 続拾壱記

続拾壱記 華麗!京都扁額巡り

京に残る名扁額を紹介

前回の「拾壱記」では、建屋軒下の気になる存在「扁額」の、起源と歴史を調べ、そして自らもそれを製作・導入するという試みを行った。今回の「続拾壱記」は、そんな自作拙物披露への「口直し」として、各所に伝わる正真正銘の名品扁額たちを紹介してみたい。

扁額の名品といえば、最古のものが残る奈良を筆頭に全国に存在するが、公開されてないものや画像紹介が出来ない物も多い。よって今回は、奈良に次ぐ古都で、第2の宝庫ともいえる我が京都にあるそれを対象とした。そして、その中でも「比較的古い物」、「特筆される物」に限って紹介する。

意外と少ない「古物」  扁額の古物といえば、奈良・平安朝頃の物、即ち「古代もの」が想像されるが、実はそれらは殆ど現存していない。兵火や天災等の災厄は勿論、屋外に設置されることによる早期劣化に因り、総じて残存率が低い為である。現在、寺社でよく目にする物は近世(江戸期)以降の物が多い。よって、それ以前の物は全て古物・稀少品といえるのである。

今回は、拾壱記でも紹介した松平定信編纂の古物図録、『集古十種(しゅうこじっしゅ)』を手に京都市内の古扁額を探った。即ち、それが編纂された19世紀初頭頃まで残存していたとみられる名古額を求めたのである。しかし、その存在が確認出来なかった物も少なくなく、特に、日本に於ける飛白体使用の元祖であり、正に京で活躍した弘法大師空海や嵯峨天皇等の、平安朝初期の能書・貴人達の確かな遺作は得られなかった。

だが、それでも、さすがは千年の都、多くの名品・古物と出会えた。また、当初の主旨に少々反するが、近世以降の物にも、その伝統を継いだ優品・奇品を目にし、調査・紹介する運びともなった。数多(あまた)ある京都の扁額の中では、僅か一部に過ぎないが、この扁額巡りに暫しお付き合い頂ければ幸いである。

 

京都扁額巡り「東部編」

先ずは拙宅に近い京都市東部域から。市街東辺にあって南北に連なる、所謂「東山」沿いの地域である。行政域でいえば左京区・東山区の管轄地。元は平安京外域であったが、地理的近さ等の好条件により古から社寺が営まれ発展してきた。当然、扁額存在数も多いが、京域に同じく応仁・文明の大乱と、それに続く戦国争乱に被災したため中世以前の「古物」は少なく、その多くは近世初頭、社寺復興期以降のものとなっている。


京都扁額巡り「北部編」

東部編の次は北部。京都市街がある京都盆地の、北辺に広がる山地、「北山」がその範囲である。行政域でいえば左京区・北区・右京区のそれぞれ北域に当る。都の近郊、しかもその上手(かみて)という立地の良さから、古くより多くの社寺が設けられた為、扁額も多く存在する。しかし、その利点が仇となり、山中ながら、都に同じく争乱被害を蒙ることとなった。殆どの社寺が古代に遡る起源を持ちながら、当時の建造物が現存しないのはその為であろう。当該地区の「古物」扁額の状況もまた同様。しかしながら、中世初期の貴重なものも存在する。


京都扁額巡り「西部編」

西部編は市街西辺の、上京西部・北区・右京区をその範囲とする。都近郊で平地の為、北部に比して更に多くの社寺・古跡が見られる地であるが、やはり戦火等の影響は逃れ難く、その殆どが再建となっている。しかし、ここには貴重な「古代もの」と思われる古物が存在する。やはり、近くとはいえ、混乱の中心であった都城の外であったことが幸いしたともいえよう。


京都扁額巡り「南部編」

南部編は、最後に残った伏見・南区・西京区等がその範囲となるが、他域に比して扁額を擁する古寺や大寺は少ない。しかも、兵乱等の影響は他域同様に蒙っている為、「古物」の数は非常に少ないとみられる。だが、京師近郊故、離間地故に残った名物扁額も存在する。


京都扁額巡り「番外編」

扁額巡り最後は、企画意図とは外れるも興味深いものを特別に紹介する番外編。明治23(1890)年に完成した、我が国水力発電事業の嚆矢であり、京都近代化を代表する事業、琵琶湖疏水にまつわるものを取り上げる。


紅葉の季。彩りと個性豊かな扁額に親しむ

以上で、私独自の京都扁額巡りは終りである。限られたスペースと調査日数ながら、主要なものを含め、様々なものを紹介出来たのではないかと思う。勿論、まだ知らない古物や稀少品が存在するかもしれないので、ご教示頂ければ幸いである。

『集古十種』には今回紹介したもの以外の古物も掲載されているが、所在が確認出来なかったものがあったことは初めに述べた。編纂より既に200年経っているので、その間に失われたことも考えられるが、どこかに紛れている可能性も否定できまい。

因みに今回は紹介出来なかったが、東部には知恩院の「知恩教院」額(後奈良天皇宸翰 16世紀)と銀閣寺の「東求堂」「同仁斎」額(共に足利義政真蹟 15世紀後半)、西部には妙心寺の「玉鳳院」額(花園天皇宸翰 14世紀前半)や二尊院の「小倉山」額(後柏原天皇宸翰 16世紀前半)という名古額が現存するので参考にされたい。

いよいよ紅葉たけなわとなった晩秋の京都。色とりどりの樹々によって、普段より少し高められた視線をそのまま軒下にも向けてみよう。そこには、また様々な彩りと個性を持った「扁額」という味わい深い存在が認められるであろう。今回の企画を、そんな(実は)華やかで奥深い扁額に親しむきっかけとして活用頂ければ幸いである。

吉田神社大元宮1 先発は、まさに拙宅近所に当る吉田神社から。同社の末社であり全国の神々を祀る「大元宮(だげんぐう)」に掛かる同名額。『集古十種』掲載額で、それによると大元宮が当地に造営された文明16(1484)年当時の天皇、後土御門帝の宸翰(しんかん)という。しかし、現社殿は近世初頭の再建とされるので、確かな「古物」であるかどうかは不明である。再建時に古物を再利用した可能性もあるが、そもそも「宸翰」とあるので、天皇直筆の文書文字から新調した可能性も考えられる。大きさは長辺が1尺程しかない小振り。縁の装飾が短い様子と相俟って特異な印象を受けるものである。元は鳥居額か何かだったのであろうか。下部が欠けているのは、入母屋屋根の妻壁奥下にある為。中心の「元」字のみ人形(ひとがた)を想わす草体が用いられた装飾的・呪術的な姿は、そこが密教や道教教理をも採り込む「吉田神道」の根本殿堂であることを示すかのように思われて興味深い
吉田神社大元宮2 大元宮額の上部には、もう1つ社殿形状と同じ8角形をした大額が掛かる。道教世界観の影響を受けたとみられるそれには「にほんさいじょう ひだかみのひのみや」の一文が記される。ここが日本最上の社であるという意であり、かつて全国の神職人事を掌握していた吉田神道の権威を示すものでもある。『集古十種』によれば何と平安初期は嵯峨天皇の宸翰という。本当なら大変貴重なものであるが、吉田神道は15世紀末の創設なので文との辻褄が合わない。しかも嵯峨帝は神社創建以前の人である。吉田社に詳しい吉田社家後裔の古老、S氏に訊ねても初耳だという。ただ、元は大元宮前に明治初年まであった楼門の額であったとの伝承は伺えたので、せせこましく感じた設置状況への疑問は解けた。帝の件は謎だが前書編纂の頃には何か根拠があったとみられる。因みに、S氏によれば社殿後方にある外宮・内宮の扁額には日野富子(15世紀)揮毫の伝承があるという。
真如堂本堂 大元宮がある神楽岡を東へ越すと天台寺院真如堂がある。扁額巡りの最中、一千年の歴史を持つその古刹に立寄った際目に入ったのが本堂の同名額であった。寺自体、近世半ばの転入再建なので古物ではないが、堂とした名作ぶりに惹かれて紹介することにした。本堂の大きさに相応しい大額に余白を極限まで詰めた草体大字が絶妙に収まる。重厚さと同時に感じる軽やかな躍動―。豪胆なこの秀作を成したのは何と女人、後西天皇(ごさいてんのう)皇女で宝鏡寺門跡の理豊女王(りほうにょおう)であった。当時能書として広く知られていたのか、各地に遺作が残る人物である。
「理豊女王」親筆の証 下段の画像は女王の作を証する印章部の拡大。道号である「徳巌」の文字が右行に篆体縦書で記されている。但し、「徳」字は行人偏のない原字、「巌」は山冠が山偏で表されている。前回の造作章でも説明した通り、その辺りも、篆体使用・解読の難しいところであろう。真如堂によると、この額は本堂落成後の享保11(1726)年に賜ったものだという。
金戒光明寺山門 真如堂がある丘陵を少し南に下ると、また大寺と出会う。浄土宗大本山金戒光明寺で、地元では「黒谷」の名で親しまれるここの巨大な山門に写真の額があった。飛白めいた独自隷体にて記されるのは「浄土真宗最初門」の一文。寺設置の説明板によると、室町初期(1382-1412年)に在位した後小松天皇の宸翰とある。後小松帝とは、かの一休宗純の父ともいわれる人物である。説明通りなら貴重な古物となるが真相は不明。山門自体が万延元(1860)年の再建だからである。古物の模刻品の可能性もあるが『集古十種』には掲載されていない。しかし、作品的には独自性があって好感が持てる。大寺の門額にありがちな威圧的な姿ではなく、周囲の飾り共々、繊細優美に仕上げられているからである。「品格勝負の額」とでも言えようか。なお、額文は寺ゆかりの浄土宗開祖、法然の事績に因む。説明板に記された「宗派名を表すものではありません」との断りが面白い。
東照宮楼門 東照宮といえば、かの日光を思いだされるかもしれないが、これは紛れもなく京都左京区のもの。南禅寺塔頭「金地院(こんちいん)」境内にある社の楼門額である。金戒光明寺からの南下して南禅寺地区の扁額を物色している際目についた。東照宮は「東照大権現」、即ち死後神格化された徳川家康を祀る社。その東照宮がここに存在するのは、金地院を再建した禅僧「以心崇伝(いしん・すうでん)」が家康の政治ブレーンであった関係による。そこからも判るように、この扁額もまた中世以前に遡るような古物ではない。ただ、日光とは違い、装飾を極力抑えた暗色の建築中に光を放つが如き白地(はくぢ)・黄金(こがね)を配すという、特異な美意識に感じて紹介するに至った。書体は黒谷山門額へ更にクセを加えた感じ。正に書論『麒麟抄』にいう鬼形か。揮毫者は不明だが、同様の扁額も能くした青蓮院宮尊純法親王の親筆歌額が拝殿にあるので、その手による可能性も考えられる。
平安神宮応天門 南禅寺を西へ下った岡崎には平安遷都1100年記念して明治期に創建された平安神宮がある。平安京の正庁、朝堂院を8分の5の規模で再現した社殿の正門、「応天門(應天門)」に掛かるのが写真の同名額である。揮毫者は当時の能書、宮小路康文。即ち近代以降に作られた模造古物だが、特筆すべき情報が秘められていた。それは、これと同じ筆跡が古代応天門額の初代揮毫者とされる弘法大師の真蹟として『集古十種』に収録されているからである。所蔵地等の記載はないが、大師の筆法を特に能くしたという宮小路が参照した可能性は高いとみられる。とすれば、現在確認されていない大師の応天門額筆跡が近代まで存在したことになる。古代宮殿額は現存せず、その写しの一部が学者藤貞幹(とう・ていかん)収集の『集古図』(18世紀編纂)等に伝わるが、この字はない。この扁額は、歴史に埋もれた大師の真蹟が今もどこかに眠っている可能性を教えてくれるのである。
清水寺仁王門 平安神宮を南下し、また東山麓を進めば、かの清水寺に至る。写真はその仁王門のもの。土産屋の坂を詰めた辺り、壇上に出会う朱色(しゅしょく)の表玄関といえば判り易いであろうか。飛白的草書で記されるため読み難いが、寺名がそのまま記されている。揮毫者は、平安中期(11世紀前後)の能書、藤原行成(ふじわらの・ゆきなり)。和様書道に於ける主流的一派世尊寺流の祖で、後世小野道風(おのの・みちかぜ)、藤原佐理(ふじわらの・すけまさ)と共に「三蹟」と呼ばれた大家である。近年の修繕により、応天門額同様の極彩色が復されたその姿にも「古物」たる由緒が窺われる。古くから広く知られたもので、『集古十種』にも収録されているが、「世尊寺大納言行成卿真蹟」と添書された、その収録文字は、明らかに違う書体となっている。これについての事情は不明だが、複数存在することや、作り直し等が考えられよう。もし存知の方がおられれば、ご教示願いたい所である。
六波羅蜜寺本堂 清水寺の西麓近くにも、古代からの由緒を持つ古刹がある。真言宗智山派の寺院、六波羅蜜寺である。その本堂正面に掛かるのが、写真の寺号額。揮毫者は、かの三蹟の1人、藤原佐理(944-998年)。謹直ながら、大陸の豪気たるも含んだ楷体の大書で、事実なら貴重な作例となるが、如何であろうか。寺でも真筆を説明しているが、本堂は貞治2(1363)年の再建で、状態の良さからも原作とは認め難い。ただ、古代の歴史物語、『大鏡』(作者不詳。成立11世紀頃)には、佐理が揮毫したと記されている。
東福寺三門 清水寺からまた南下し、東山区最南端にある巨刹、東福寺に至る。同じく東山麓、臨済宗東福寺派の大本山である、その「三門」に掛かるのが写真の「妙雲閣(妙の偏は玄)」扁額である。門は応永年間(1394-1428年)に第4代室町将軍足利義持が再建した現存最古の三門遺構。扁額はその義持によって揮毫された。原作であることがほぼ確実に知れる貴重な古物といえよう。真の意味での大陸的、そして禅的かつ武家的な質実剛健で緊張感ある書体が印象的な作品。恰も真剣を下ろすように紙を擦る筆遣いさえ聞こえそうである。しかし、その最大の特徴は大きさにあった。なんと畳3枚分に相当するという。見上げて実感出来ないのは建屋自身の巨大さに因るものか。管見では京都最大、そして恐らくは日本最大の扁額と思われる。因みに、中国山西省にある清代(17-20世紀)の楼閣には、横8m、縦3mという巨大扁額が存在するらしい。こちらはアジア(世界?)最大とのこと。
知恩院三門 恐らくは京都最大、そして日本最大の扁額、東福寺三門額を取り上げたのであれば、この額を素通りする訳にはゆくまい。正に平安神宮から東福寺への南下途上にある、浄土宗総本山、知恩院の三門額である。日本最大の木造楼門に掛かるそれは、東福寺額にこそ敵わないが、畳2枚分という大きさ。修学旅行等での訪問時に、驚きや感心と共に知った人も多いのではなかろうか。門は元和7(1621)年に徳川2代将軍秀忠によって建立。寺の山号「華頂山」が記された額は霊元天皇(1654-1732年)の揮毫とされるので、その製作年はそれよりかなり下るかと思われる。近年の修繕の影響にも因ると思われるが、実に美麗の品である。作り込まれて肉筆感が減じた様は、「書」というより「工芸品」としての趣が強い。前代までの「曖昧」や「揺らぎ」を否定し、身分や権威の固定化に腐心した徳川政権がプロデュースした寺のものらしい、新時代を反映した扁額ゆえであろうか。
延暦寺浄土院 先発は天台宗本山、延暦寺。所在地の比叡山は東山連峰の嶺なので、厳密には「北山」とは呼べないが市街北辺ではある。よく知られている通り、織田信長による戦国期の焼討等、幾度も被災している為、堂宇の殆どが近世以降の再建である。よって目ぼしい古額は望むまでもないが、最近訪れた際目を惹くものと出会った。伽藍が集まる3地区の内「西塔(さいとう)」と呼ばれる地にある「浄土院」に掲げられていた写真の同名額である。浄土院は宗祖最澄の廟所で山内で最も神聖とされる場所。創建は仁寿4(854)年だが、現施設は近世の再建である。額は小品ながら実に手の込んだもの。これは額がある堂扉周辺の繊細な細工や、境内の清浄な雰囲気と調和する為の配慮とみられる。しかし、火焔の如き動きを感じる飛白様古書体の生命感は健在。だが、その姿は飽くまで慎ましい。今時の女子には「かわいい」とも評されそうである。揮毫者は不明。静かなる逸品といえよう。
高山寺石水院1 次は右京区栂尾(とがのお)の高山寺へ。市西部を流れる桂川の山間支流辺にある真言系古刹である。紅葉の名所高雄の奥、かの「鳥獣人物戯画」の所蔵寺院といえば知る人も多いであろう。写真はその「石水院」に掛かるもの。「日いでて先ず照らす高山の寺」と読む。寺の中興、明恵上人が、後鳥羽上皇より建永元(1206)年に賜った勅額で、北部きっての古額。国宝の石水院は高山寺唯一の現存鎌倉期遺構で、後鳥羽院の学問所であったとの伝承を持つ元経蔵。その事と、建屋に対する額の過大さから、元は別殿にあった可能性が窺える。緑地に金字を施した経巻の如き品である。しかし、そこに経文の如き穏やかさはなく、雄々しささえ感じる。それは偏に、記された書体に因るものであろう。揮毫者が後鳥羽院本人かは不明だが、以前他所で見た院の手形との類似を感じた。優れた文人でありながら王政復古を目指し乱を起した人物らしい、精力的で豪なる様がである。
高山寺石水院2 高山寺石水院の額は、先に紹介した後鳥羽院の勅額と、近代の文人富岡鉄斎のものが有名であるが、片隅にもう1つあることに気づいた。それが写真の、「十無盡院(じゅうむじんいん)」額である。十無盡(尽)院とは、宝亀5(774)年に「神願寺都賀尾房」として開創された寺が、弘仁5(814)年から鎌倉期(13世紀)までの間、名乗っていた寺号である。高山寺と改名されたのはこの後のことなので、寺の古代名といえよう。とすれば、この額は後鳥羽院額より更に古いものとなり、全国的にみても貴重な「古代もの」となる……。しかし、改名後も正名として名を保っていた可能性もあろう。揮毫者を含め、情報がないので全くの不詳ではあるが、年月を経た古式のその姿からは、古物である可能性も否定できない。「無」字が読み難いのは字体が異なる原字を崩している為。恐らくは周囲に枠があったのであろう。長さ1尺(30cm)程の山寺らしい簡素な品だが、書体共々気品が薫る。
清涼寺旧楼門 西部編先発は、「嵯峨釈迦堂」の名でも知られる清涼寺から。西郊嵐山地区にある浄土宗古刹である。その、旧楼門に掲げられていたとされるのが写真の「愛宕山」額。かの三蹟、小野道風が揮毫したとされる古来有名な扁額で、『集古十種』にも同様に説明されている。事実なら京都では最古級のものとなるが、物言いがつく。それは、寺の創建(987年)が道風の没年(966年)より後だからである。しかし、前身寺院である棲霞寺及び釈迦堂のものであれば辻褄が合うので強ち否定出ない。棲霞寺本尊が現存することや、奈良朝古物に通じる強い線刻を用いる様式を見ても、その思いは強まる。何より、著しい劣化を見せる木肌が、徒ならぬ歳月経過を物語っている。揮毫者は誰であれ京都屈指の古物である可能性は高そうである。愛宕山は山号である五台山に同じ。古来ある山名に大陸の聖山、五台山の名を当てたものである。細さの中に芯を見る、繊麗な和様楷書が素晴らしい。
清涼寺仁王門 清涼寺の表門である、仁王門(楼門)に掛かるのが写真の「五台山(五臺山)」額である。現在の門は安永6(1776)年に再建されたものなので、古物ではないと思われるが、「愛宕山」額が掲げられていた往時の姿を知る参考資料として紹介したい。書体や文言はそれと異なるが、板の地肌を残した簡素で古風な仕立は共通している。恐らくは今見る愛宕山額か、それ以前の姿を参考にして作られた可能性がある。そこから推察すると、愛宕山額も、恐らくはこれと同様、四囲に飾り枠があったと想定出来る。書体的には、互いに何の脈略もなさそうだが、こうして並べてみると、不思議な共通を感じるのは私だけであろうか。字句の立ち様というか、主張の仕方みたいなものがである。愛宕山は五台山に同じく、山自体が古来より信仰の対象。言わば、「神号」でもあるそれら山名に対する、特別な表現・意味付けの結果が、両者の共通を導いているように感じられるのであろうか。
清涼寺本堂 寺の開祖奝然(ちょうねん)が北宋(10世紀)から請来した国宝「釈迦如来像」をまつる本堂正面にかかるのが、目も覚めるばかりの青が印象的な写真の額である。堂は18世紀の再建、額も見ての通りの新物ぶりなので企画意図とは外れるが、好みなので許されたい(笑)。揮毫者は禅宗新派「黄檗宗」の開祖で、華人僧の隠元隆琦(いんげんりゅうき)。かの隠元豆を齎したとされる人物である。「黄檗三筆」の筆頭的能書として著名だが寺との関りは不明。字の各部、そして全体が旋回するが如き粘りがいい。
北野天満宮三光門 次は寺院ではなく北野天神。郊外とは言えない上京区内にあるが、歴(れっき)とした平安京外の地。その本殿前にある中門「三光門」に掛かるのが写真の宮号額。後西天皇(1637-1685年)の宸筆で、古物ではないが、真如堂額の揮毫者、理豊女王の実父に当る縁により紹介する。後西帝は、その父、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)に同じく、文化人としても名を馳せ書も能くした。『集古十種』掲載額で、飛白の一種といえるのか、少々硬直した観 のある変わった書体である。工芸品的趣が感じられるのは知恩院三門額と同じ。同時代品故の類似であろうか。但し、外枠は古式が用いられている。ところで、今回の表題写真に用いたのは、同じ天満宮の正門である楼門の扁額である。流麗な草書にて記されるのは、文芸に秀でた祭神、菅原道真を称える「文道太祖、風流本主」の一文。古いものではなく、揮毫者も不明だが好感が持てる品。白と黒のみによる色構成も斬新。
勝持寺仁王門&本堂 南部編を代表して紹介する1枚は、都の西南、西山麓にある天台古刹、勝持寺(しょうじじ)の寺号額である。延長5(927)年に醍醐天皇より賜ったというもので、かの小野道風が揮毫。『集古十種』にも同様に解説される古来著名の扁額である。但し写真のものは仁寿年間(9世紀中葉)の旧構ともされる境内最古の建造物仁王門にある同形品(複製?)。原物も近年まで本堂にあったらしいが、今は収蔵庫にあって撮影が叶わなかったため代りとした。収蔵庫で接したそれは、かの清涼寺額に通じる「老体」で、正に古代物の貫禄を見せつけるもの。由緒への科学的判定は未だなされていないようだが貴重な古額であることは疑い難い。道風様の書も能くした、近世の文人公卿、近衛家熙(このえ・いえひろ)による箱書もそれを補強する。「寺」字の形が目を惹く、彫深い工芸品的表現が印象的な隷体額である。同じく天台系古刹、鞍馬寺仁王門額にも同様の書体例がみられる。
琵琶湖疏水第3隧道出口 東京奠都により衰退した京都の活性化と近代化を図って行われた疏水建設。そこには、その意気込みと過渡期であった時代を表徴する様なユニークなものがあった。それは各隧道(洞門)出入口上に設けられた石額である。写真のものは第1疏水が京都盆地に顔を出す第3隧道出口にある篆体の「美哉山河(うるわしきかなさんが)」額。揮毫者は、かの明治元勲三条実美(さんじょう・さねとみ)である。揮毫者に政府要人が多いのは疏水額の特徴であり、国政に於ける事業の位置を物語るものでもある。他にも伊藤博文や山県有朋等、錚々たる面々の作品が存在。しかし、古めかしく謎めいたその書体故に、幼少期は少々不気味に感じていた。文は『史記』呉起列伝の一節、「美哉乎山河之固、此魏国之宝也」より。国の防備を担う山河を称えたものであるが、後節ではそれに勝る為政者の徳が説かれている。よって政府政策(為政者の徳)への自画自賛を意図か。
琵琶湖疏水インクライン隧道 疏水扁額は水路隧道上だけに設けられている訳ではない。写真は第3隧道出口にも近い、蹴上(けあげ)は旧インクライン(舟筏運搬軌道)を潜る道路隧道南口上に設置されたものである。南禅寺横から旧都ホテルに抜ける歩行者トンネルと言えば解る人も多いのではなかろうか。通称「ねじりまんぽ」と呼ばれるその両口にあるが、それは現在10枚程確認している疏水石額の内の2枚に当る。写真額は疏水事業を計画・推進した、時の京都府知事、北垣国道(きたがき・くにみち)揮毫の「雄観奇想(ゆうかんきそう)」。「優れた景観内の驚くべきアイデア」とでも訳せようか。風光明媚な東山山麓寺院地区に発電所やインクライン等の先端施設が出現した当時の蹴上と、疏水の存在そのものを表徴するような文である。出典は不明、北垣の創作か。簡潔で秀逸な文ながら、字間・余白を多くした控えめな篆体作品。元勲ら、錚々たる中央政府要人への遠慮であろうか。
一覧へ戻る
株式会社ルームマーケット 〒606-8336 京都市左京区岡崎北御所町56-4 電話 075-752-0416 FAX 075-752-2262
AM10:00~PM6:30 定休日はこちら E-mail:info@roommarket.jp プライバシーポリシー
宅地建物取引業 京都府知事(3)11495号・二級建築士事務所 京都府知事登録(25B)第02171号・建築業許可 京都府知事許可(般-18)第36810 pagetop
Copyright(C)2012 room market co.,ltd. All Rights Reserved.