第拾弐記 整頓!衣装箪笥
人生の華「婚姻」
暦の上では6月から始まる日本の夏。京都市街もこの頃から納涼床の営業や(近年は5月から営業)、街ゆく浴衣姿を見かけるようになる。祇園祭や盂蘭盆会(お盆)等の行事や、それらとも関る休暇や娯楽も多いこの季節。伝統的・禁欲的な面もあるが、概ね開放的・非日常的な印象を以て、多くの人の気を漫ろにさせる。気温に同じく、心も高まる、年中で最も華やかな時期といえよう。
さて、華やかな時期といえば、人の一生に於いては、結婚をその代表として挙げることが出来るであろう。結婚はいうまでもなく、他人同士を結び、人の生産と養育をも行う可能性を有す、古来重要視された行為である。この華やかな行為と夏は、西洋の格言「ジューン・ブライド(June Bride. 6月の花嫁)」の如く、関連も窺われるが、梅雨や酷暑ある我が国では然程でもなさそうである。統計上では6月を含む夏期は、意外にも冬に次いで挙式件数が少ないことが判明しているからである。
昨今、少子化や晩婚・非婚等の問題とも絡み、何かと話題になるこの結婚。今回は、華やかな夏に因み、その歴史について調べてみた。
日本に於ける婚姻形態とその変遷 現在、世界各民族・各地域で、ほぼ例外なく行われている結婚の習俗。もはや人類普遍の習慣といえよう。古代の神話にさえ語られるその歴史は古く、その起源に迫ることは極めて困難である。我が国に於いても、その事情は変わらない。ただ、これまでの研究により、有史時代以降の形態やその変遷についての推定は行われている。
それによると、日本の婚姻形態には大きく分けて3種存在するという。1つは婚姻生活が妻方に属している「婿取婚」、2つ目は婚姻生活が夫方に属している「嫁取婚」、そして3つ目が現在多く見られるような、婚家を定めない「独立婚(寄合婚)」である。独立婚の代りに婿取婚と嫁取婚の中間形態ともいえる「足入婚」を加える見方もあるが、婿取婚は母系型、嫁取婚は父系型、そして独立婚は個人型とするこの分類がより一般的なようである。
この3種に先行するものとして、弥生時代以前の原始社会で行われていたという「群婚」があるが、それは当初行われていた「族内婚」と、その後行われた「族外婚」に二分される。原始社会では男女は群居状態にあり、その中で婚姻をなし(内婚)、やがて支群や隣群とも婚姻をなした(外婚)とされるからである。
一方婚姻形態の変遷であるが、群婚のあと、即ち古墳時代頃から、先ずは婿取婚の時代が始まる。当初は、妻方が婚主で夫婦別居が建前、つまり通い婚式の、「つまどい」、「よばい」と呼ばれる緩やかなもので、奈良時代頃まで支配的であったという。その後は4つの形式が継起的に生じる。
初めは妻方の母が婚主で、妻方同居が建前の「前婿取婚」(平安初期頃まで)。次は妻方の父が婚主で、妻方同居の「純婿取婚」(平安中期に盛行)。その次は「経営所」なる妻方用意の別宅にて独立同居する「経営所婿取婚」(院政期。即ち平安後期に盛行)。最後は親が避居した夫方の家を、妻方の家として擬制的に婿取りをする「擬制婿取婚」(鎌倉から南北朝期まで)である。
その後は嫁取婚の時代となる。それは中世末期の室町時代頃より表面化し、確立されるに至ったという。婚主は夫方の家父長で、夫婦は夫宅に同居するようになった。当初は、成長した武家階級に生じた「家」や「血縁」を重視した形態であったが、それが礼法の発達などと共に、広範に広まったようである。そして、この嫁取婚が、先の大戦頃まで我が国の標準的な婚姻形態となった。明治維新以降に始まるとされる独立婚が勢いを得るのはその後のことである。
このように、有史以降の日本の婚姻形態は、妻方の家を主とする婿取婚から始まり、その逆の嫁取婚を経てやがて現代的な独立婚へと変遷したとされる。しかし、あくまでもそれは現存の史料、しかもその多くが中央や貴人に関るものから判明したことであり、全土的現象としての各形態の出現時期や順序の固定をし得るものではないと思われる。
それは、婿方で儀礼を行うも当初は嫁方に婚舎を置くという、婿取りと嫁取りの過渡期形態とされる「足入婚」が近年まで各地に残存していたことや、嫁取婚に先行すべき婿取婚の形跡が見られない地方が存在することからも補強される。即ち、未だ研究途上ともいえ、大まかな流れとして見るべきと思われる。
日本の婚儀史 1対の男女の性的・経済的・社会的結合関係といえる婚姻。それを公然確固たるものとするには、社会に対する宣言とその承認が必要である。それを全うさせる行為が、婚姻の儀礼、即ち「婚儀」であった。
今日見られるように、その盛大さ、華麗さを以て婚姻の華やかさを印象付けるものであるこの婚儀。元は、歴史的にも地域的にも実に多様で、新旧の諸習俗も併せた複雑なものであった。それらを逐一挙げることは出来ないが、婚礼形態の変遷同様、大まかに紹介する。
婚儀といえるものが史上見られるようになるのは平安中期頃のことという。しかも、それは中央の貴族社会でのことであった。妻方の家が婚主であった婿取婚のこの時代。妻方の承認を得る為の「露顕(ところあらわし)」という儀礼が行われた。これは婿が妻宅へ入った3日後に初めてその親族と面会するという儀式で、その時出される「みかよのもち(三日夜餅)」、「みかのもちい」などと呼ばれる餅を夫妻が食すことで婚姻が成立したという。
このあと妻方用意の衣装に着替え、酒食が供されたというが、婚儀の中心はあくまでこの三日夜餅であり、呪術的思想が窺われるも、至って簡素なものであった。
中世、即ち鎌倉時代頃から婚姻形態が徐々に嫁取婚に移行し始めるが、そこには軍事優先であった武家社会特有の遠隔地との政略婚速成という事情も作用していたようである。つまり、既成事実を儀礼化するという前代までの「よばい」的形式ではなく、儀礼によって任意かつ随時に事実化するという思惑を込めたものである。それは、儀礼の複雑化・盛大化を招き、花嫁行列や三三九度盃事、色直し、雄蝶・雌蝶の折紙法式や長柄銚子、調度飾り等の、今日馴染の諸具・諸作法を出現させた。
また、書院造式住居に備えられた神聖空間「床の間」に佛画やそれら調度品を飾り、その前での挙式も行われるようになる。それと同時に、一時に集中して行われる式を取り仕切る「仲人」の役割が重くなった。これらは、室町時代に於ける礼法の成立と、式法や衣服・調度品等を定めた儀礼書の出現、そして書院造に代表される住宅形態の変化に影響されつつ段階的に発達した。そして、江戸時代には儀礼書の一般刊行等の影響により、やがて庶民の間にも広がったという。
神前・佛前・教会・人前式 今日見られる諸儀礼や調度品が出揃う嫁取婚主流時代ではあったが、その末期にあっても、婚儀内容は今と同じではなかった。「教会式」や「人前式」は元より、伝統的と認識され盛行している「神前式」や「佛前式」ですら、20世紀に入ってから広まったものだからである。
特に、最も古式と見られがちな神前式は、1900(明治33)年に大正天皇の婚儀が新法に則り皇祖天照を祀る宮中「賢所(かしこどころ)」で行われたことを契機に広まったという。佛前もそれに近い頃、そして教会式や、宗教を排した人前式は戦後の普及である。
神佛を介して婚姻の神聖さを演出するという今日一般的な式法は意外にも新しい形態であった。しかし、本質的にはそれ以前に行われていた「床の間挙式」の形を引継いだものともいえる。ただ、思想的には、前代のそれは婚姻契約自体に聖性を与えるという思惑が強かったようにも思われる。ともかく、「神聖式」とでも呼べそうな今日の方式は、それ以前の形式を引継ぎつつ、家の中から外へと挙式場所が移りゆく社会状況に対応し、より大規模に、より劇的な形へと進化したものと思われる。
婚儀の中心儀礼「三三九度」の謎 ところで、神前式等で現在も行われる「三三九度」の盃事とは、そもそも、どういう役割を課せられたものであろうか。中世頃より一般化したそれは、古代の「三日夜餅」に代わる婚儀の中核をなすものであることには疑いないが、前者同様その役割については今ひとつ見え難い。
飲酒回数を示す三や九は、奇数であるそれらを尊ぶ大陸思想の影響であることは解る。また、一式の器で酒を飲み交わすことは相互の親交を深めるということも、世界各地の民族習慣上から明白である。
ある調査によると、今日酒を婚姻締結に用いるのは、日本と台湾の一部先住民、そしてイスラエルぐらいだという。更に、専用の酒器を用いる場所に限れば日本と台湾のみらしい。しかし、婚姻に限らず、広く儀礼での使用とすれば世界各地に例がある。その中で、最も関連が窺えるのが、紀元前の昔、遠く西アジア北方で活躍した騎馬牧民「スキタイ」の誓約儀礼である。
かのヘロドトスの報告によると、土製の大盃に酒を入れ、当事者の血を注し、刀剣類をそれに浸して祈願した後、主たる者が干したという。このスキタイに特徴的な遺物として「リュトン」と呼ばれる牛角型の手杯があり、同じく誓約に用いられたことが細工絵などから判明しているが、この角杯こそ、三三九度の謎へのヒントを宿す存在であった。
角杯は、元はギリシャで飲料用に使用されていたとされ、主に地中海沿岸、西及び中央アジア、中国、朝鮮そして日本に分布している。中国では主に華北、朝鮮では新羅とその影響域で発見されていて、南方や百済では確認されておらず、華北や新羅はその遺物に見られる影響などから、スキタイ文化に繋がる北方遊牧文化との関連が考えられている。日本では北陸や丹後等で出土し、中央の畿内や北九州では見つかっていないことや古い型が存在しないことなどから、新羅域から直接日本海経由で伝来し、発展したものとみられている。
華地や半島では原義どおり盟誓に使用されたことが遺物や史書から判明しているのに対し、日本では古墳陪葬しか確認されていないが、殺馬祭祀跡や殺牛痕跡等の存在から、影響の可能性は窺える。元より、大陸での角杯分布が、遊牧様盟誓儀礼、「犠畜盟誓」の実施範囲と重なり、それとの強い繋がりが想定されるからである。
犠畜盟誓は、盟約の席で牛馬等の家畜を犠牲にしてその誓いを立てる行為であるが、角杯に同じく、スキタイなどの牧民風習が起源とされる。中華では様々な史書上に抗争和約の際に行われたことが記されており、新羅では儀礼詳細と国内でそれが広く行われていたことを示す碑文も発見されている。また、それらの一部には、スキタイ同様、酒に当事者や犠牲の血を混ぜて飲むことも記されている。
つまり、盟約(主に同盟)に際して犠牲を用意し、犠牲か人の血、そして酒を飲むことを特徴とする儀礼である。違う集団を結ぶ盟約と、違う一族の男女を結ぶ婚姻は、擬似的同化契約の締結、という点で同質的行為といえよう。そこで浮上するのが、大陸の盟誓儀礼と日本の婚姻儀礼の共通点「酒」である。
穀物から造られた酒は、古来よりそれ同様に霊的な価値を有すものとして世界各地で崇められた。その為、儀礼でも愉楽目的としてではなく、あくまで「実用品」として消費された可能性が高いとみられる。人や犠牲の血もまた同様である。しかし、日本では佛教戒律や「穢れ思想」の影響、または儀礼の統制強化の為か、伝来はしたものの犠牲儀礼は定着しなかった。
そうなると、古代牧民式誓約儀礼中、酒の儀礼のみ継承され、三三九度等の日本式誓約儀礼の成立に影響したのではないか、との考えが生じる。関連を直接的に示す物証が発見されていない為、推測の域を出ないが、古代に於ける繋がり等を考慮すると、強ち荒唐無稽なこととも言えないのではなかろうか。ともかく、三三九度は異集団同士の同化を確かにするという、重要な役割を担っていることだけは、間違いなさそうである。
過ぎ行く夏。「結び」を考える 雨湿や酷暑に悩まされる日本の夏。冬同様、極端で過ごし難い気候ではあるが、反面、その開放感・非日常性を以て人の暮しに活気も与える。そんな、難しくも華やかな季節に因み、同じく人生の華ともいえる婚姻について調べてみた。そこからは、伝統的旧習と思いこんでいた婚儀方式の意外な新しさや、古代牧民文化との時空を超えた繋がりなどが窺えた。
今また過ぎ行く夏の、残暑の日々――。男女、そして人類の「結び」について考える。変わりゆく季節同様、時代の潮目たる今を経て、婚姻もまた姿を変えるに違いない。そして、様々な問題を抱えながらも、また未来へと続くのであろう。
結びの賜物「婚礼箪笥」蘇生
古家居住特有の問題に救世主 唐突な話だが、私はこれまで自ら箪笥というものを買って使ったことがなかった。男であるが故に衣装の類が少なかったこともあるが、都市に於ける住居事情の悪さ、即ち住空間の「狭さ」が、そもそもそれへ興味が向かうこと自体を阻んでいたように思われる。とはいえ、収納がないと少ない衣類と雖も片付かないので、近年よく見かけるプラスチック製のケースを専ら用いて凌いできた。
この辺りの状況は、若年世代や独居世帯の多くの人と共通するところではなかろうか。だが、私は近年この方法を改めざるを得なくなった。それは、古家に住んだことに因り、それが使い難くなった為である。存知の通りプラスチック容器には通気性がない。よって、比較的乾燥したマンションや、アパート上階とは違い、地面に近く湿度の高い戸建て住居では黴臭くなる等の問題が生じ易くなったのである。
これを改善するには、容器を通気性の良いものに替えなければならない。理想をいえば、桐等の木製収納箱が最適であるが、当然安価・手軽に調達出来るものではない。
そんな折、同じく古家に住む近所の友人夫妻から、古い箪笥を分けてもらうこととなった。それは、彼等が近所の古家解体現場から貰ってきたもので、昭和初期以前製とみられる衣装箪笥であった。淡い紅色の漆で仕上げられ、各抽斗鍵穴には「桐紋」金具が使用されていることから、婚礼家具とみられる。
簡素ながら、どこか艶っぽく、中々いい雰囲気を醸している。勿論、金具以外は全て無垢板が使われている為、容器の代替品としても申し分ない。正に、私にとってそれは、救世主とでも呼べる存在であった。
規格を意識した造りにより押入れに設置 ただ、問題は結構な大きさを有するその設置場所が小宅内にはなかったことであったが、これは簡単に解決出来た。即ち、それごと「押入れ」に入れてしまったからである。拙宅の押入れは伝統的な京間規格に基づき一間(1910mm)幅で造られていた。同じく京都生れと思われるその箪笥が、押入れ引戸を開けた状態である半間内に丁度収まったのである。
友人夫妻の好意により問題は解決されたが、やがてまた彼等から箪笥を貰うこととなった。親類の箪笥を引き取り、置き場所がなくなった為らしい。箪笥は前回とほぼ同様のもので、右下に小さな抽斗が付加されたものであった(上掲表題画像参照)。恐らくは、前のものの対になるもので、同じく婚礼箪笥だったとみられる。
当初は修理に手間取る状態のため躊躇ったが、折角の対が散逸することを惜しみ引き取ることにした。設置場所は同じく「押入れ」内で、前回の箪笥の後方。押入れには京間半間幅の奥行があり、箪笥2棹が丁度前後に収まった為である。恐らく、これらは偶然ではなく、箪笥が家の規格を強く意識して造られた為の賜物かと思われた。
今回はこの古いながらも華やかな婚礼箪笥の、衣類収納としての復活に挑むこととなった。
代用木釘にて構造的問題に対処 今回の作業は、比較的不具合が大きい、あとに頂いた箪笥の修理が主となった。先ずは構造的な問題への対処から。それは、抽斗受板の脱落対策をはじめとする、箪笥全体の緩みに対する補修であった。実はこれらの不具合には「木釘」が関係していることが多い。
古い箪笥は部材の接合に木釘が使われることが一般的である。この木釘が、荷重や衝撃、板の反りや収縮等によって、抜けたり破断したりして、部材の脱落や緩みを生じさせるのである。だが、この時限的ともいえる木釘性質が、結果的に部材自体の割れや傷みを防ぎ、箪笥の寿命を存えさせているともいえる。調査した結果、今回の構造不具合も、この木釘の劣化が原因であることが判明した。よって、木釘の打ち直しを施すこととした。
元々、家具作りの現場で手作りされていた木釘は、鉄釘のように身近での入手が難しい。なら、昔のように、職人の見習いよろしく自分で作ればいいが、数があると結構大変である。第一、材料となる空木(うつぎ)を手に入れるのも容易ではない。そこで、今回は市販されている「空木楊枝」を流用することにした。
木釘の材に適した空木は、その強さから、高級楊枝としても利用されている。それは、一般的な楊枝に比して少々値が張るが、加工の手間もかからず本数も多い為、費用対効果が高い。ただ、最近はあまり売っていないので、専門店に行く必要があった。今回は、中京区にある京都市中央卸売市場近くにある食品容器店で購入した。かなりの数(100本以上?)が入ったものが、400円程であった。
木槌を打ち、狂いを修正して再接合 楊枝を利用した木釘の代用品を、先ずフライパンにて煎る。空木は熱をかけることで組織が締まり、より強靭になる為である。本来は、糠と一緒に煎るのが最適らしいが、今回は省略した。こうして用意した代用木釘を、元の木釘が脱落した場所や、折れた場所に木槌で打ちつけた。先端に木工用接着剤を塗布して、である。
元の穴が折釘により塞がったりしたものは、錐にて再度下穴を開けた。また、楊枝が元の木釘より細かったので、保持力が必要な箇所には2本以上を共打ちにし、板の接合面にも木工用接着剤を塗布して対応した。その後、表面に余り出た部分を、カッターやニッパーを用いて切断した。
このようにして木釘を打ち直すことにより、抽斗受板の脱落や緩みの大半が解消された。しかし、背板と側板の間に生じていた隙間を何故か接合することが出来なかった。その原因は、側板内側に付けられていた横棒が側板の幅より長く、背板と側板の接合を阻害していたことにあった。
元は同じ幅だったものが、長年を経た側板の収縮により、違うものとなっていたのである。そこで、その横棒を取り外し、側板の収縮分だけ鋸で切断することにした。そして、再度横棒を取り付けると、目論見通り、側板と背板が接合出来たのである。
手間や趣を考慮しつつ外観的問題に対処 構造的問題を補修出来たのなら、次は外観的問題への対処を行う。傷や、汚れ等の補修である。だが、手間の問題や、古物的趣を残す為、その作業は最小限に止めることとした。目立つ場所、気になる場所のみへの対処である。しかし、こうすることにより少ない労力で意外と成果を得ることが出来る。いわば、古物補修の秘訣とでもいえようか。
先ずは割れや隙間などの欠損が大きい箇所への充填を行う。欠損形状に凡そ合わせた木片等をそこへ接着し、一晩以上おいて硬化させた後、木片周囲の隙間に木屎(こくそ)を充填した。木屎とは、第弐期等でも使用した、木屑と新漆を混ぜ合わせて作ったパテである。
そして、それも一晩以上おいて硬化させた後、木片を含めた充填部全体に新漆を塗布して表面を整えた。使用したのは元の漆色に近い「紅溜(べにため)」という色。その後、他の傷や小欠損箇所にも塗布し、塗装面の補修を完了させた。
次は抽斗の引手についた汚れの除去。引手には劣化した布テープの粘着剤が付着し、外観を損ねていた。金属性引手と前板金具との接触緩和のため施された対策が、歳月を経て仇となった例である。大した問題ではなさそうだが、これが中々……。
洗剤は疎か、アルコールやシンナー等の溶剤を用いても落ちないからである。結局は、マイナスドライバーの刃先で、極力下地を傷つけないよう、削ぎ落すこととした。幼稚かつ迂遠な方法のようだが、結局これが一番確実であった。
可動式へ。箪笥と空間の最大限活用 これにて構造的・外観的補修が終った。本来ならここで作業終了となるが、今回はまだ続きがあった。否、続きというより、ここからが本番、今回の特色ともいえる作業が待っていた。それは、頂いた2棹の箪笥を可動式にすることであった。
たとえ、押入れの奥行に2棹が収められても、後方となる1棹が使用出来なくなる。これでは折角補修した甲斐がなく、無駄な空間専有も生じてしまう。そこで、箪笥下にキャスター(脚輪)を付け、それごと動かせるようにして、2棹の箪笥と空間を最大限に活用出来るように考えたのである。
キャスター利用による古箪笥活用は簡便ながらいい考えであったが、その取り付けには少々工夫が必要となった。それは、箪笥が板のみで組まれる「板組」で作られていることに因り、底部に点荷重に耐え得るその取り付け場所を得られなかった為である。よって、荷重を分散し、かつ強固にキャスターを固定出来る「取付台車」を設けることにした。
それは、手持ちの12mm厚の板に2個のキャスターと、箪笥側板底に固定する左右のL金具を取り付け製作した。そして、その台車2つを、箪笥底部に平行に取り付け、全4輪で支えられるようにした。
強さに留意した取付台車の製作 台車は、箪笥底部の窪みに落し込むように取り付けるので、キャスター共々外からは見えない。ただ、L金具の端面が少々露出したので、新漆を塗布して目立たなくした。
また、キャスターにより生じる、箪笥底と床の浮き高は20mm程に設定した。こうすることにより、外からキャスターを見せず、かつ移動の際に敷居等の乗り越えが易くなるのである。
取付台車の準備では、それに加わる重量や衝撃に対する「強さ」に留意した。キャスター1個あたりの耐荷重は25kg以上、つまり全4つで100kg以上のものとし、L金具も厚さ5mm以上の頑丈な鉄製を採用した。また、ネジの種類やボルトの構成にも同じく配慮した。それら部材の調達はホームセンターにて。費用は全部で2000円程であった。
因みに、当初キャスターは車輪がゴム製のものを採用したが、のちにウレタン製のものに改めた。ゴム製のものは、床や畳面を汚す恐れが発覚した為である。また、床面の素材や仕上げの種類によっては科学反応を起し、車輪共々変質させる可能性もあった。無駄が生じてしまったが致し方あるまい。
完成。色合い、特性を活かした利用 2棹の箪笥にそれぞれ台車を取り付け、作業を完成させる。早速押入れに入れてみると、いい塩梅で2台を収めることが出来た。補修の甲斐もあってか、艶やかなその色合いは見た目にも悪くない。普段は板戸を閉めず、押入れから見せて使うのもいいかもしれない。
衣類を収納して重量が増した際に、畳上で少々動きが悪くなるといったことも見出されたが、特段不都合はない。レール式の採用等を含めた、次回同様事案への課題とすることとした。
さて、準備出来たペア可動箪笥の利用法。当座の間は、1つに冬物衣類、もう1つに夏物衣類を収めて使用することにした。つまり、衣更えの度に箪笥の前後を入れ替える訳である。可動式なのでそれが瞬時に叶う特性を利用したのであった。
ただ、可動式故、地震の際は危険となるので、押入れ前での就寝等の際は引戸式の板戸を閉めることにした。
「結びの介在者」復活の喜び こうして古の婚礼箪笥が、更なる利便性も付加されて衣装箪笥として蘇った。そして、私個人の生活に於いても、最適な環境での衣類整頓が叶うようになったのである。何より、友人や近所といった、人の繋がりの中からそれが得られたことは有難い限りであった。
これも一種、「結び」の賜物といえよう。あたかも、結びの介在者たる婚礼箪笥の本分までも蘇った心地であった。実に、喜ばしい限りであった。
あくまでも、中央及び上層階級を主とした大まかな推測であり、地方や庶民を含めた全土的状況を示すものではない。